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おはようございます。
今朝の大阪も大変良いお天気になりました。
昨年ご紹介させて頂きましたが、今日と明日は大阪府島本町にある児童養護施設「遥学園」で、桜バザーが行われますので、今日はお手伝いに行って来ます。
一昨年は「うどん」、昨年は「かき氷」の模擬店を担当させて頂きましたが、今年は何か?、今から楽しみです。笑
また、今年の桜は例年に比べ開花が遅れましたので、島本町の方はまだ綺麗な花を咲かせてるのでは?と、楽しみにしています。笑
さて、この日本の桜の花、外国人の心もとらえるようで、毎年この時期を目指して来日する外国人観光客も大変多いということですが、国と国との友好の証として日本から海外に贈られたこともありました。
今朝はその一つ、ウズベキスタンに贈られた桜のお話をご紹介させて頂きます。
ウズベキスタンのナヴォイ劇場のお話は、やさしさ通心の小冊子、第9話でご紹介させて頂きましたが、まずは、以下の今週火曜日(4/9)の産経新聞のコラム『産経抄』からご紹介させて頂きます。
『産経抄』
中央アジアのウズベキスタンの自慢は、首都タシケントにそびえる壮観なオペラハウス「ナヴォイ劇場」である。
第二次世界大戦後、旧満州で旧ソ連軍の捕虜となった約400人の日本人部隊が建設に携わった。
1966年4月に発生した直下型の大地震により壊滅状態となったタシケントの街の中で、この劇場だけはびくともしなかった。
以来、「地震が起きたら日本人の造った建物に逃げ込め」が国民の合言葉になったという。
中略
先週(4/3)発生した台湾東部沖地震で震源に近い花蓮県の沿岸部で、1971年に架けられた橋が崩壊した。
ところが、隣接する日本統治時代の1930年に建設された橋は、補強すればすぐに使用できることが判明し、すでに通行可能になっているというのだ。
台湾メディアは「百年老橋」と名付け、SNSでも称賛の声が相次いでいる。
統治時代の日本人技師にしてみれば、手抜きなしの誠実な仕事をしただけである。100年近く経って、突然脚光を浴びていると知ったら仰天するだろう。
以下略
『日本とウズベキスタンをつなぐ桜の逸話』
ウズベキスタンの首都タシケント市では、春になると綺麗な桜が咲き誇ります。
実は、このウズベキスタンの桜には、感動的なエピソードが隠されているのです。
時代は第二次世界大戦期まで遡ります。
当時、ウズベキスタンには旧ソ連軍によって送り込まれた日本人捕虜たちが強制労働を課せられていました。
満足な食事も与えられない捕虜であるにも関わらず、日本人たちはとても真面目に働いていたそうです。
そして、そんな彼らの姿を見た現地住民たちは、日本人に対して大変好感を持ち、尊敬の念すら抱くような感情を持ちました。
「日本人たちは、几帳面で仕事を大切にするとても良い人たちだ」
「時間がきても、仕事が終わらなければやり続けるし、うまくいかない時は、工夫してやり遂げていた」
「誰かが病気になると助け合っていた」
「日本人が作るものは全て良いものだった」
このように現地の人々から日本人捕虜たちは、尊敬されていたといいます。
日本人捕虜たちは、いつか日本に帰れる日が来ると信じ、励まし合いながら一生懸命、労働に勤(いそ)しんだのです。
しかし、ウズベキスタンは典型的な内陸性気候、冬の気候はマイナスとなる一方、夏季は45度以上になることもしばしば、満足な食事も与えられず、
そんな願いも叶わず、現地で命を落とす者たちも少なくありませんでした。
そのため、ウズベキスタンには強制労働で命を落としてしまった日本人たちの墓地が存在するのです。
その墓地をウズベキスタン人たちは、必死に守り抜いてきました。
ソ連から「墓地を解体しろ」という命令があった時にも、従おうとはしなかったそうです。
しかし、年月が流れ、その墓地を管理する人々も減り、墓地は廃れてしまったといいます。
そんな時、かつて捕虜だった日本人がその墓地を訪れ、絶望してしまいます。
この地で励まし合いながら労働に勤しみ、「帰国したい」という願いが叶わぬまま、命を落としていった日本人の仲間が、こんな廃れた場所で眠っているということを知り、大きなショックを受けたのです。
そして2001年、この声に応えるために日本大使館は墓地の整理に乗り出し、その費用を集め、ウズベキスタン政府に整備の申し出を行ったのです。
ところが、ウズベキスタン政府からは予想だにしない答えが返ってきました。
なんとウズベキスタン政府は、日本側の申し出を拒否したのです。
これは、どういうことでしょうか?
実は、ウズベキスタン政府は日本人墓地の整備を拒否したわけではありませんでした。
ウズベキスタン政府は、
「ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、日本との友好関係の証として、ウズベキスタン政府が責任を持って行う。
これまでできなかった事は大変恥ずかしい。早速整備に取り掛かります。」
と、謝罪しつつ、自らの責任で整備したいという返答だったのです。
しかも、政府の声掛けによって、多くの一般市民がボランティアとして作業に参加したといいます。
当時、日本人が造った水力発電所はまだ現役で稼働しており、その恩を忘れることなく、ウズベキスタンの人たちの間で、しっかりと語り継がれていたのです。
子供たちは母親から、
「日本人は規律正しく人々だ」
「勤勉で物を作ることがとても上手な人たちです」
「そして、恩を忘れない律儀な人々だ」
「あなたも日本人を見習って大きくなりなさい」
と聞かされて育ったといいます。
こうして墓地は綺麗に整備されていきました。
しかし、墓地の周りがあまりに殺風景すぎて、なんだか悲しいと感じた日本大使館スタッフが、ある提案をしました。
それは、ここで亡くなった日本人たちに桜を見せてあげたいと言う「願い」でした。
ウズベキスタン政府は、この日本大使館の提案を快諾するとともに、当時、建設中だったタシケント中央公園を日本の桜で埋め尽くせないかと、リクエストまであったというのです。
こうして、各日本人墓地と中央公園、それに続く大通り、大統領官邸、ナヴォイ劇場などで、合計1300本もの桜の苗木を植えるという、国家的大事業が始まったのでした。
桜の苗木は日本から空輸され、日本の造園家の指導の下、ウズベキスタン人たちによって植樹が行われたそうです。
そしてこの桜は、春になると街中で満開の花を咲かせ、かつての日本人捕虜たちと現地のウズベキスタン人たちの絆が、今もなお、生き続けていることを垣間見ることができるのです。
【JAPAN文化チャンネル】より