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おはようございます。
さあ、今朝も穏やかな大変良いお天気になりましたが、もう11月も終わり、来週からはいよいよ師走12月ですね。
本当に月日の経つのは早いものだとつくづく感じます。
ところで、私のふるさとでは毎年11月中旬に『泣き日待ち(なきびまち)』という行事が行われていました。大人だけが参加する行事で、子供の頃から最近までその行事の名前だけは知っていましたが、意味も分からず過ごしてきました。
しかし最近になって、父も母も亡くなり、お墓のことやいろいろと動いていると、御先祖様の悲しいお話を知りましたので、今朝はそのお話を紹介させて頂きたいと思います。
私のふるさとは、三重県志摩市磯部町という伊勢市の南側ある田舎町ですが、実は数百年前に、ため池を作るために、三重県の中部にあったふるさとを追い出され、今の磯部町に移り住んだという話しは聞いていました。
そして、元々住んでいた所が今は「五桂池(ごかつらいけ)ふるさとパーク、動物園」として地域の憩いの場になっている、そんな話しも聞きましたので行ってみると、確かにその池のほとりに、大きな立て札があり、この池を作るために、追われた家々の名前が書かれていて、田畑の名前があったことも思い出しました。
そして改めて、今自分が平和に暮らしているのは、御先祖様がしっかりと命を繋いでくれたお陰なんだなと、感謝の思いを持ちました。
『五桂池の秘話』
今では憩いの場となっている五桂池(ごかつらいけ)ですが、これは、今から三百五十年前に紀州のお殿様の命により作られたものでした。
この池には、ふるさとを失った村人の悲しいお話が残されています。
来る日も来る日もお天道(てんとう)さまは照り輝(かがや)き、村人たちは嘆(なげ)いとったそうや。「雨が降(ふ)ってほしいなあ」「雨乞(あまご)いでもせんと、降らんのやろか」と青い空を見上げては、村人たちはため息をつくばかり。
田んぼはひび割(わ)れ、このままでは今年も米が獲(と)れんようになるにちがいないと、途方にくれておったんやて。
一方、※田丸城(たまるじょう)の代官(だいかん)さまの方でも、「これでは、年貢(ねんぐ)の取り立てもままならん。たいへんなことじゃ」と、お城(しろ)の中で相談を始めたが、良い考えは浮かばへんだらしい。
そんなある日、田丸城を支配している紀州(きしゅう)の殿様(とのさま)の使いの者から、もっと年貢米(ねんぐまい)を増やすようにと、きびしい命令が届(とど)いたんや。
「実は、ごらんのような日照(ひで)り続きで、米はたいへん不作でございます。まったく手のほどこしようもございません」
と使いの者に返事を申し上げると、
「ならば池を造れ!」
という命令が下され、田丸城の代官さまは、ますます困(こま)ってしもた。
紀州の殿様からは
「山と山の間にはさまれた盆地(ぼんち)を探(さが)し、池を造ってみよ」
と再び命令があり、
代官さまは、
「それなら、上五桂(かみごかつら)あたりがちょうど良い場所です」
と答えたものの、そこには二十五軒(けん)の家があったんや。
やがていく日かたったある日、突然(とつぜん)上五桂の在所(ざいしょ)に、
「ここに池を作る」という代官さまの立て札が立てられた。
「えらいことや。わしらの村が池になる」
「こんなみじめなことはない。わしらはいつもお上(かみ)の言いなりばかりや」
村中おおさわぎとなり、村人は田丸の代官さまに押(お)し寄せるばかりになった。
しかし、代官さまや紀州の殿様にはとうてい勝ち目はあらへん。
「池が出来て水に困らんようになるんやったら、わしらが我慢(がまん)しようやないか」
と村人たちは、自分たちの苦しい気持ちをおさえて協力することに決めたんや。
住み慣れた土地から見知らぬ土地へはなればなれに移ってゆくことは、とてもつらいことやったが、
※寛文十二年、工事が始まり、六年の歳月(さいげつ)を費やして、伊勢の国では一番大きな池が出来上がった。
すると、上五桂の二十五軒の人々が泣いているかのように、大粒(おおつぶ)の雨が降り続いたんやて。おかげで池はみるみるうちに水がたまり、それからというもの、近辺の村人たちは水に困ることなく、おいしいお米をたくさん作れるようになったんやて。
※田丸城=建武2年(1336)現・三重県度会郡玉城町に、北畠親房(きたばたけちかふさ)・顕信(あきのぶ)父子が南朝義軍の拠点として砦を築いたのが最初と言われている。
現在は花見の名所としても有名になっている。
※寛文(かんぶん)十二年 = 1672年(江戸時代)
【三重県のホームページ】より
※泣き日待ち 三重県志摩市磯部町
・行事の内容・いわれ
毎年11月16日(最近は勤め人が多い為15日に近い日曜日に変更)に、磯部町夏草で行われる行事。
延宝3年(1675年)正月16日、五桂池築堤の為に、多気郡五桂の地を離れて夏草の地に移住し、あらゆる辛酸苦労を重ねて、
わずかの田畑を開拓し、五軒の家族が相協力し栽培した野菜や米麦を同年11月16日、神前に御供えして、
しばらく生活の見通しが出来たと五軒の家族の老若男女、共に手を取り合い、うれし泣きに泣いた。
(移住を余儀なくされた二十五軒のうち、この地には五軒が移り住んだ)
それ以来約350年間、泣き日待ちと称して毎年、野菜や米麦を持ち寄って祖先達の当時の労苦を忍び、又区民の親睦も兼ねてごちそうを食べる。
行事にまつわる食べ物
昭和52年より簡単な献立に変わる。
・ごはん 「五目飯」白飯
・添物 大根なます 煮〆 ぬた きんぴらごぼう 漬物
【インターネット泣き日待ち信仰】より
