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おはようございます。
さあ今日は「処暑」、二十四節気の一つで暑さがピークを越え、徐々に収まっていく季節だそうです。でも油断せず、水分は十分に取り熱中症対策には気を付けましょうね。
さて、今月のやさしさ通心ではあの大戦のお話をご紹介していますが、今日は一番肝心な「なぜ日本は真珠湾攻撃を行ったのか?」です。
米国や世界中が「日本が奇襲攻撃をした」、「騙し討ちをした」と非難し、戦後日本を「侵略国だ!悪い国だ!」と徹底的に叩くための材料にされてしまいました。
今朝はまず、私たち日本人が必ず知らなからばならない真実をご紹介させて頂きます。
ぜひ今日のやさしさ通心は、しっかりと理解して頂き、身近な方にも教えてあげてくださいね。
最初に、開戦の約3週間前に米国が日本に突き付けた※ 最後通牒について、ちゃんと理解しましょう。
※ 最後通牒(さいごつうちょう)=最後通告(さいごつうこく)のこと。
外交文書の一つで、国際交渉において最終的な要求を文書で提示すること。
交渉の終わりを示唆し、それを相手国が受け入れなければ交渉を打ち切る意思を表明すること。
ハル米国務長官が日本の野村大使に手交したことからハルノートと呼ばれる。
『恥ずべき最後通牒ハルノート』
第二次世界大戦当時、アメリカ大統領は、民主党のフランクリン・ルーズベルトです。
そしてその政敵とされたのが、アメリカ共和党の主導的政治家であったハミルトン・フィッシュです。
フィッシュは日本にはほとんど知られていませんが、実は日本と深い関係があります。
知られていない理由はいたって簡単、戦後すぐから米国にとって不利な真実の証言をしていたため、日本ではマスコミや大学ですら、米国を気遣って絶対に紹介しなかったからです。
真珠湾攻撃の翌日、ルーズベルト大統領は日本に対して、宣戦布告を求める議会演説を行いました。ルーズベルトの演説に続いて、下院議員としてそれを容認する演説を行ったのがフィッシュでした。
実はフィッシュは、大のルーズベルト嫌いでした。
ヨーロッパの戦いに干渉したがるルーズベルトを警戒し、米国が参戦することに強く反対していたのです。当時、米国世論の8割以上は第一次世界大戦で多くの若者が米国とは関係のないヨーロッパで死んだため、ヨーロッパやアジアの争いに巻き込まれることを拒否していました。
その世論の流れを一気に変えたのが真珠湾攻撃です。
フィッシュも、対日宣戦布告を容認せざるを得なかったのです。
ところが戦後フィッシュは、この自分の演説を深く恥じることになります。
なぜなら、ルーズベルト政権の日本との交渉の詳細が次々と明らかになってきたからです。
特にフィッシュが問題視したのは、ルーズベルトが、ハルノートの存在を議会に隠していたことでした。ルーズベルトは、「米国が誠意を持って対日交渉を続けている最中に、日本は非情にも真珠湾を攻撃した」と議会や国民に説明していました。
しかし、それは嘘だったのです。
フィッシュは自著でこう振り返っています。
私たちは、日本がまだ交渉中に我が国を攻撃したものだと思い込んでいました。
しかし、1941年(昭和16年)11月16日の午後に、日本の野村大使にハル国務長官が最後通牒(ハルノート)を手交していたのです。
そして、ワシントン議員の誰一人として、その事実を知らなかったのです。
民主党の議員も共和党の議員も、それを誰も知らされていない。
それは、米連邦議会だけに開戦権限を認める合衆国憲法の精神にも背いた外交文書だったのです。
フィッシュはルーズベルトを軽蔑するとともに、自分がその嘘に乗せられて対日宣戦布告を容認したことを強く恥じました。戦後の研究で、日本の天皇も指導者も対米戦争を全く望んでいなかったことまでもが明らかになると、彼の怒りは頂点に達します。
フィッシュは自著でこう述べています。
私はルーズベルトを許すことができない。彼はアメリカ国民の欺き、全く不必要な日本との戦争に米国を導いた。日本は面積がカリフォルニアにも満たない、人口八千万人の比較的小国であった。
天然資源はほとんど保有せず、また冷酷な隣国であるソビエトの脅威に常に直面していた。
天皇は名誉と平和を重んじる人物であり、側近の攻撃的な軍国主義者を制止するために、出来る限りのことを行っていた。
日本はフィリピン及びその他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。
しかしながら、ひとつの国家として、工業や商業のために石油なしには存立できなかった。
日本は、コメ及び石油の購入を平和的に保証されたならば、どのような条約にでも署名しただろう。
ただ、自由貿易を認めるだけで良かったのだ。
日本がなぜ、近隣諸国からコメ・石油・ゴム・錫(スズ)その他の商品を購入することさえもできないくらいの制限を、米国によって課せられなければならないのか。
そんな理不尽な話はありえない。
天皇及び近衛首相は、平和を維持するために信じられないほどの譲歩をするつもりでいたのである。
近衛首相は、ルーズベルトとの会談を繰り返し要望していたのである。
在日米国大使であったジョセフ・グルーは、日本がどれだけアメリカとの平和的関係を保ちたいと希望していたかを承知しており、ルーズベルトに首脳会談を何度も強く要望した。
日本は米国との戦争を避けるためならば、何でもする用意があったのであろう。
しかし、ルーズベルトは日本の首相との話し合いを全て拒否した。
対日戦、対独戦を行うことを決意していたのだ。
日本との悲惨な戦争は不必要であった。
これは共産主義の脅威をより恐れていた日米両国にとって悲劇的であった。
我々は戦争から何も得るところがなかったばかりか、友好的だった中国を共産主義者の手に奪われることになってしまった。
日本人は高度な忠誠心、愛国心に満ちた非常に感受性の強い、誇り高き、かつ勇敢な民族である。
このような民族に最後通牒(ハルノート)を突きつければ、必ず戦争になるとルーズベルトは確信していた。
私はルーズベルトを許すことができない。
この対戦は米国に三十万人の死亡者と七十万人の負傷者、そして五千億ドルの支出をもたらした。
日本に軍人民間人合わせて、三百万人以上の死亡者をもたらした。
日本の物的、人的、精神的被害は計り知れない。
その責任は全てルーズベルトが負っているのだ。
【世界が賞賛する日本チャンネルより】
□ ハミルトン・ストイフェサント・フィッシュ(1888年12月7日 – 1991年1月18日)
ニューヨーク州出身。ニューヨーク州の政治で長く活躍した一家に生まれ、自らも1920年から1945年にかけてアメリカ合衆国下院議員を務めた。
在任中は、アメリカ合衆国の対外介入に反対したことで有名で、フランクリン・ルーズベルト大統領を批判した。
1990年に102歳の誕生日を祝った時点では、フィッシュはアメリカ合衆国議会議員経験者として最年長の存命のアメリカ人であった。