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おはようございます。
さあ、今朝の大阪は大変良いお天気になりました。昨日くらいから少し暖かくなり始め、春の気配を感じます。
寒さがやわらぎ良いお天気ですと、心まで暖かく笑顔になりますね。笑
さて、今朝のやさしさ通心も先週に続き、我々日本人のご先祖様が苦労を重ね、悲しみと災害を乗り越えて来たお話をご紹介させて頂きます。
日本のポンペイと呼ばれる鎌原観音堂のお話です。
本文のあとに、現在の観音堂の写真も含めたホームページのURLを貼り付けておりますので、よかったらご覧下さいね。
『よみがえった鎌原村(かんぱらむら)』天明浅間山噴火(1783年)
「浅間山の噴火」
群馬と長野の県境で、今も火山活動を続ける標高2560メートルの浅間山。
この山が江戸時代の半ば1783(天明3)年に大規模な噴火を起こしました。
この年の5月頃から山がゴロゴロと鳴り、噴煙が空高く上がり、火山灰がたくさん降り注ぐと、8月のはじめには本格的な噴火が始まります。
火口から噴き出した高温の軽石や火山灰が火砕流(かさいりゅう)となって、山の斜面を猛スピードで流れ下りました。
この噴火で麓にあった鎌原村は、熱い溶岩と山の地肌から削ぎ取られた岩などが入り混じる“岩なだれ”の直撃を受け、村全体が埋まり466人が亡くなりました。
岩なだれは浅間山の北側にある吾妻川(あがつまがわ)に入り、大泥流(だいでいりゅう)となって村々を襲い、田畑や家屋、そして人々を飲み込んで利根川に流れ込みました。
この災害では1500人もの人々が犠牲になりましたが、その亡骸(なきがら)は江戸川の川岸にまで流れ着いたといいます。
そればかりではなく、空に高く舞い上がった火山灰は太陽の日差しをさえぎったため、天明の大飢饉の原因の一つにもなったと言われています。
「発掘で見つかった二体の遺骨」
1979(昭和54)年に鎌原村の発掘が行われました。
村の小高いところにある観音堂へ続く15段の石段を掘り下げると、その下にはさらに石段が35段埋もれていて、その最下段のところで「背負う人と、背負われる人の格好をした遺骨が二体」発見されました。
調査の結果、二体の遺骨はともに女性で、背負われた人は40?60歳、背負う人は30?50歳、お互いに血縁関係がないことがわかりました。
当時、発掘に当たった専門家や村の人たちは、高温の岩なだれから逃れようと、お嫁さんがお姑さんをおぶって、必死に高台にある観音堂を目指したものの、途中で力尽きてしまったのではないかと推測しました。
江戸時代には大きな災害にあって家族を失っても、村を離れて生きることは大変困難な時代でした。
自分たちが生きていくためには村を蘇らせるしかありません。
残念ながら、お姑さんを背負って途中で倒れてしまったように、その思いを遂げることができない人もいましたが、鎌原村の生き残った91人は、新しい家族を作り、子孫を増やして、村を立て直すことを決意しました。
苦労を重ねた村人の結びつきは大変強く、30年後にはようやく家も畑も元の三分の一ほどまでに回復しました。
村人たちは災害から立ち直った経験から、何事にも打ち克(か)つ力を得たのです。
【“その時”に備える】内閣府 防災担当 発行 より