NO:817

 おはようございます。
今朝の大阪は穏やかで秋晴れの大変良いお天気になりました。そして、もう2ヶ月もしたら新年だと思うと、本当に月日の流れるのは早いなあと感じますね。
今朝も、大変良いお話です。

今週と来週に分けてご紹介しますが、お時間のある時にでもゆっくりお読み下さいね。

動けないけど 社長 話せないけど 大学講師 『だから自分をあきらめない!』

動けないけど 社長  話せないけど 大学講師  『だから自分をあきらめない!』
一般社団法人HI FIVE (ハイ ファイブ)
代表理事 畠山織恵

 今から44年前、私は大阪の堺市で生まれました。父は叩き上げの消防士でした。
第一子である私は、とても大切に育てられたのだと今ならわかります。

 でも当時の父は、思いの強さ故に私を殴り、大声で怒鳴ることもしばしばでした。
そのため気がつけば、私は親や周囲の顔色を伺い、相手が望む答えばかり探す、そんな子供になっていました。

「この家を早く出たい。自分の人生をやり直したい」そう考えていた私は、ある日「妊娠をしたら家を出られるのではないか」と思いつき、お付き合いをして3ヶ月の彼に、「家を出たいから結婚しよう。だから私を妊娠させてほしい」と伝えました。

 妊娠を報告すると父は激怒しました。
それでも自由を得るため、自分らしく生きるためにこのチャンスを逃してはいけない。
19歳の私はそう信じて実家を飛び出したのです。

 数ヶ月後、長男・亮夏(りょうか)が生まれました。
生後10ヵ月の時、亮夏は重度の脳性麻痺だと分かりました。

「亮夏さんは、自由に歩くことも、話すことも難しいでしょう」と先生から告知を受けました。

 実家に報告のため電話をしました。障害があることを告げると父は一言、「しょーもない子ども産みやがって。二度と帰ってくるな!」。それだけ言って電話を切りました。

 でも、「見とけよ。絶対に『よう頑張った。よう育てた』と言わせたる!」
と、私は心に決めたのです。

 そこで思いついたのが「私が育てられたのとは全く逆の子育てをする」でした。
例えば私は、「お前、何やってもアカンな。でけへんのやったら最初からすんな」と親からいつも言われていました。

 だからそれを逆さまにして、「あんたって何やってもすごいなぁ。できへんでもいいやん。何回でもやったらええやん。あんたやったらできる」そうやって自分の経験を逆手にとって子育てをしたのです。障害を言い訳にせず、自分のことを信じて生きていける。そんな人になってほしいと願って。

 亮夏が10歳の時、妹の「つかさ」が生まれました。
つかさが生後9ヶ月で、初めてつかまり立ちをしたときのことです。
夫も私も「子どもが初めて立った瞬間」を見て、歓喜に湧きましたが、亮夏だけは目をまん丸くしてびっくりした表情で見ていました。

 自分が歩けないんだから、当然妹も歩けないはず。彼はそう思っていたのです。

 私は少し考えてから亮夏に言いました。

「そうやなぁ。この家族で歩けへんのは亮夏だけや、でも歩き方って人それぞれやん?
 あんたの「歩く」は車椅子や。車椅子で歩く人の数は少ないかもしれへん。でも少なかったらあかんとか、そんなんじゃないやろ?
 それに、人と違うからこそ見える景色があったり、できることがあるんちゃうかな?」

「うん」

とうなずく彼に、更に私はこんな話をしました。

「ママな、小っちゃい時、自分がやりたいことより、親が言う道を歩んできた。
 でもそれ、ほんましんどかった。ママは親の人生を歩いてきたんや。
 もしママがずっと亮夏と一緒にいたら、結果的に亮夏もママの人生を歩くことになる。
 だからママはママの人生を歩く。亮夏も亮夏の人生を自由に歩いたらええ。
 それと20歳過ぎたら…家を出て欲しい。
 障害がある人の王道の人生ストーリーは、介護施設に入ったり、一生親と生きたりする人生や。
 亮夏もそう生きたいか?友達と暮らしたり結婚したりしたいと思わへんか?
 家を出て行くと言う事は、仕事や仲間、居場所とか、いろんな条件が揃っているということや。
 そこを一緒に目指せへんか。」

 私がどんなに頑張って生きても、亮夏を一生守ることはできません。
誰かに一生面倒を見てもらえるほどの大金を残してあげられるわけでもありません。
私ができる事は、亮夏が自分の人生を、自分を信じて生きていけるようにしてあげることだけ。

 だから、そんな話をしたのです。
その私の思いを後押しした出来事がありました。

 私が33歳の時でした。
電話をかけてきた母は、ピンと張り詰めた声でこう言いました。

「お父さんな、ガンがやねんて」

 ステージ4、末期の食堂ガンでした。
でも私にはピンときませんでした。しばらくして父はホスピスに入りました。

 ある日母から、

「悪いけど先にお父さんのところへ行ってくれへんかな」

と言われました。

 私がそれまでずっと、父とニ人きりになることを避けていることを気遣った母からの電話でした。
その日私は初めて一人で父の病室に前に立ちました。
大きく一つ深呼吸をして病室のドアを開けました。

 父はベッドに横になったまま、

「織恵(おりえ)ちゃんか。ここ座り」

と言いました。

 父はおもむろに私の手を取り、しげしげと眺めて言いました。

「織恵ちゃん、大きくなったなぁ。
 亮夏君のことやけどな、お父さんとお母さんじゃ亮夏君を育てることは多分できなかったと思う。
 お前、今までよう頑張ってきたなぁ」

 それは、私が子供の頃からずっと言って欲しかった、父からの初めての褒め言葉でした。

「親に認められたい。親から好きだと言われたい」と、長く満たされなかったのですが、この一言は私の心を満たすのに十分でした。

 私は、父の言葉を心の底から喜びながら帰りました。
その2ヶ月後、桜が満開の日に、父は58歳で旅立ちました。

来週へ続く【

日本講演新聞(宮崎中央新聞社)】より