NO:799
おはようございます。
さあ、いよいよ「日本の将来に大変重要だ!」と言われている参院選が告示されましたが、早々に、久しぶりに大変腹が立ちましたので、まずお話させて下さい。
ご存知の方も多いと思いますが、それは石破首相の党首討論会(日本記者クラブ)での発言です。
何と、外国人の受け入れ問題についての発言ですが、「七面倒くさい日本語、日本の習慣を日本政府の負担によってでも習得してもらい、適法な人に入ってもらう」という表現、言葉です。
この人は本当に日本人なのか?自国の言葉や習慣を「七面倒くさい」って、そんな人が首相をやってていいのか?今回の選挙で参政党は「日本人ファースト」を掲げています。
また、日本保守党から立候補した弁護士の北村晴男氏は「石破左派政権」とも言っていますが、世界に類を見ないこの日本の素晴らしい伝統や文化は、絶対に後世に伝え残していかないといけません。その根底にあるのが言葉や習慣で、それを全く否定する発言であり、看過出来ません。
大変腹立たしく、「こんなヤツが首相なのか?」と、本当に情け無く思いました。
ということで今朝は、改めて日本語の素晴らしさを認識していただくお話をご紹介させて頂きます。
『なぜ日本語は、動詞(結論)を最後にしたのか?』
確かに日本語は、「世界一習得しにくい言語である」と言われています。
それは、「ひらがな」「カタカナ」「漢字」に加え「※オノマトペ」があり、また、言葉にも、「敬語」「丁寧語」「尊敬語」等があるのに加え、世界でも珍しい文章構成で、「動詞(結論)」が最後にきます。※オノマトペ=音や動作、感情を模倣して表現する言葉。(擬音語、擬声語等の総称)
例えば、雪が降ることを「シンシンと」とか、焚き火が燃えるのを「パチパチと」等。また現在、AIによる文章の要約、翻訳、会話の応答等までもが行われる時代になりましたが、実際に最前線で開発を行っている現場の人たちとって、最大の難題が、「日本語はAIにとって極めて扱いづらい言語である」という事実です。
その理由は、やはり「動詞」が一番最後に来るという特異性にありました。
英語、中国語、フランス語、スペイン語等のほとんどの言語は、文の初期段階で「主語(誰が)」と「動詞(結論)」が明確に語られるのに対し、日本語は「動詞」が最後に語られます。
例えば日本語では、「私は◯◯さんと、昨日の夕方に駅前で、・・・」と、ここまで聞いても「会った」のか?、「別れた」のか?、「話した」のか?「買い物をした」のか?等、分かりません。
それを、これまで欧米の言語学者たちは、「回りくどい」、また、日本語では「あの人、ちょっと…まあね」とか「言葉を飲み込む」ことがよくありますが、この「明確に言い過ぎない」「余白を残す」「相手の解釈に委ねる」等、これらを「曖昧だ」と言っていたのですが、最近の研究では、そういうことではなく「そうだったのか」と、日本語の素晴らしさが認識されてきました。
では、順にお話させて頂きます。
「なぜ日本語は動詞を最後まで言わないんだ?」かつてある米国の大学教授は講演でこう述べました。「日本語は非効率的で、論理的思考には向かない言語だ」と。また、ほとんどの世界の言語学者たちもそう思ってきました。
しかし最近、世界の哲学者たちが絶句したのは思考そのものの構造、結論を遅らせるというこの「静かな作法」が、深い知性と共感の力を育てていたという事実です。
つまり、意味の決定が文末まで保留されることで、聞き手は常に文脈を読み取りながら、最後まで耳を傾ける必要があるのです。先程の米国の教授は10年後、日本での生活を通じて、語順が単なる文法の癖ではなく、話し方や思考様式そのものに深く関わっていることを実感したのです。
彼が驚いたのは、日本人の学生たちの語り方でした。彼らは自分の意見を話す時も、決して結論を急がず、相手の様子を見ながら文脈を丁寧に積み上げていきます。
すぐに断定せず、相手の理解度や共感の流れを見極めながら、最後に静かに結論を添えるのです。
このように動詞を最後に置くという語順は、話し手に「配慮すること」と、聞き手に「待つこと」を促します。
つまり、日本語の語順には、人と人との関係を大切にする独自の知性が静かに備わっているのです。
また、言語哲学を研究していたフランスの思想家はこのように語ります。
日本語を読む時、まるで詩を読むような感覚に包まれる。意味はすぐには与えられず、言葉をたどりながら徐々に明らかになっていく。その過程そのものに美しさがあると。
このように、語順の違いは単なる言語の形ではなく、その言語を使う人々の思考のスタイルそのものを映し出しているのです。
これは、※サピア・ウォーフ仮説として知られる理論でも支持されています。
※サピア・ウォーフ仮説=「思考する際に言語が使われるなら、思考はその言語の影響を受ける」という考え方。言語学者のウォーフが主張した。
つまり、「世界(世間)の捉え方」そのものが、日本語を話す人々は他の国々の人々とは違うということです。
また、日本語に注目した言語学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、「私(自分)の言語の限界が、私(自分)の世界の限界である」と言う有名な言葉を残しました。
これは日本語が提示する世界が、単なる事実を順序よく並べたものではなく、話し手と聞き手が、共にその場の空気や文脈を感じ合いながら、結論へとたどり着く関係性の世界であるということです。
日本語を話す人々は、まず話す前に周囲を見ます。
相手は誰なのか?場はどのような雰囲気なのか?言うべきか?言わぬべきか?を考えます。
そうした「配慮の積み重ね」が、日本語の「語順」の中に見事に反映されているのです。
これは、自己主張を中心とした言語とは全く異なる思考構造で、相手の受け止め方を配慮しながら、ゆっくりと確信に近づく、そうした話し方は、言葉を「競争の道具」ではなく、「共感の橋」として使おうとする、知性ある態度そのものだったのです。
語順の違いが思考の違いを、それがまた文化の違いを形づくる。
この深い構造に、世界の哲学者たちが感嘆したのです。
あるイギリスの言語学者は、「日本語は話す力ではなく、聞く力を鍛える言語なのではないか」と言いました。
実際、海外の教育現場では日本語を学んだ子供たちは、他人の話をよく聞くようになったと言う報告が相次いでいます。アメリカのある小学校では、日本語学習を取り入れたクラスでは、生徒同士の言葉のやりとりに変化が見られたと言います。
以前はお互いに相手の言葉を遮って、言い合っていた子供たちが、自然と相手の話を最後まで聞くようになったというのです。この変化に教師たちは驚きを隠せませんでした。
単に新しい言語を覚えただけでなく、その語順が生徒の対話の姿勢を変えていたのです。
また、ある外国人ビジネスマンは、日本語を学んだ後、こう言いました。
「仕事の会話でも家庭での会話でも、まず聞くことを大切にしようと思うようになった」と。
「相手の話を最後まで聞かずに、結論を急ぐことで、いかに多くのすれ違いが生まれていたのか気づかされた」と。
この聞く文化が、まさに言語(言葉)からきているという事実に、彼は強く感動していました。
彼は「日本語は単なる言語ではなく、人との関係を優しく構築する技術だった。
それほど尊いものなのだ」と言っています。
語順、それは人と人との距離の取り方であり、関係性の気付き方であり、社会のあり方そのものを映し出す、静かな設計図なのだと思います。
語らないことが、今世界の哲学者や心理学者、教育者、ビジネスリーダーたちの間で広がっているのです。結論を遅らせる事は決して弱さではありません。それは相手を受け止め、関係性を深めようとする強さなのです。
【世界に輝くJAPAN】等を参考にまとめました。
みんなで選挙に行きましょうね。