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さあ、自民党も立憲民主党も新しい党首が決まりました。
今日本は、いろんな意味で解決しなければならない問題が山積みしていますが、この機会に、一刻も早い解散総選挙をお願いしたいものです。
世界中に親日国は多く、強い日本の復活を待ち望んでいる国もたくさんあります。今朝は、そんな親日国の一つ、ポーランドと日本の関わりについて、新潟県出身の看護師、松澤フミさんのお話しをご紹介させて頂きます。
『看護婦、松澤フミ』
1940年、外交官の杉原千畝が発給した「命のビザ」を握りしめ、約6000人のユダヤ難民が福井県の敦賀港に辿り着いた。そこからさかのぼること20年前にも、もう一つの人道物語があった。
ロシア帝国の支配下にあったポーランドでは19世紀から20世紀初頭にかけ、15万人以上の人々が流刑地シベリアに送られ、過酷な生活を強いられていた。ロシア革命後の混乱の中で、親を失った子どもたちが極寒の地に残されます。
ポーランド人有志でつくる救済委員会が孤児を母国に帰そうと努力しましたが、万策尽きて日本に協力を求めてきました。外務省の要請を受け、日本赤十字社は1920(大正9)年、孤児たちの受け入れを開始。ロシア極東のウラジオストクを出発した孤児たちは、まだ見ぬ国の新しい生活を想像し、喜び勇んでいたといいます。グループごとに分けられた孤児たちは数回にわたり、外務省が依頼した陸軍の輸送船に便乗しました。
船が向かったのはウラジオストクとの定期航路が開かれていた福井県の敦賀港。
孤児の第一陣が着いた1920(大正9)年7月22日。その翌日の新聞には、この出来事が載っていました。母親の決死の覚悟で救済組織に預けられたヘンリク・サドフスキさんは、「港は人であふれていました。船から降りると、ある子どもにはポーランドの旗を、次の子には赤十字の旗を、別の子には日本の旗を渡してくれました。
「私たちは裸になり消毒液の入ったプールに入りました。そこから出ると服が用意されていました」と感謝する。敦賀の人たちは孤児たちが到着するたびに、町をあげて歓迎したという。
また、元孤児のベロニカ・ブコビンスカさんが、当時日本で書いた貴重な日記が残されています。
日本でもらった軍人のイラストが描かれたノートには、敦賀で見た日本の様子がロシア語で記されていました。「玄関で日本人が出迎えて到着を祝ってくれて靴を脱ぐように言いました。靴がない人は足を洗うように言いました。昼食は床にある草のマット(たたみ)に置かれ、私たちは日本人のように足をたたんで座りました。昼食はとてもおいしかったです。昼食の後、お菓子を頂きました。
これはツルガの人たちからのプレゼントだと言われました」
アントニーナ・リロさんは「私は病気でした。シーツにくるまれ鼻先にキスをされました。看護婦さんは優しくて世話をしてくれた日本人は笑顔でいい人たちで、私たちをとても気遣ってくれました」と明かす。はじめは青白い顔だった孤児たちも、1日3度の温かい食事をとることで次第に元気になり、毎日外で遊び回り、年の大きい子どもには読書や算数が教えられた。
ただ、東京の孤児たちの間には腸チフスが次々と広がっていました。
当時の日誌には、「体調不調の子どもが次第に増えてきて、14名の子どもたちが隔離。5月2日に至ると、12歳の女児が高度の熱で腸チフスの疑いがあり、翌日はその女の子がチフスと決定した」と。
腸チフスはチフス菌による感染症で、患者の便から菌が排出され、ヒトからヒトへ経口感染していく。当時は効果的な治療薬がなく、多くの人が亡くなった。腸チフスと診断された12歳の女児は、当時チフスが流行していたシベリアで感染し、来日したとみられる。
そして、感染症と闘ったのは孤児だけではなかった。腸チフスの孤児を看病していた看護婦も感染してしまう。感染した看護婦、松澤フミ。
日赤看護大学には当時の学籍名簿が残されており、そこで当時20歳のフミは、新潟から看護学校に入り、卒業後すぐに孤児の看護をしていたことが明らかになった。
「その子のことが不憫でたまらず,死を待つほかないのなら,せめて自分の胸で死なせてやりたい」と毎晩ベッドで添い寝したそうです。そしてその子は、奇跡的に回復しましたが、フミはまるで孤児たちの出発を見届けたかのように、7月11日、20歳の若さでひっそりとこの世を去ったのでした。
白衣に身を包んで3ヵ月後のことだったそうです。日本赤十字看護大学には、その松澤フミさんの記録が残っています。さらに、彼女の写真はポーランドに残っており、一部のポーランド人の心の中にはしっかりと彼女の記憶が刻まれているといいます。
松澤フミさんの功績はのちに讃えられ、ポーランドから1921年に赤十字賞、1929年に名誉賞を授与されています。祖国ポーランドへ向けて出発する際,子供達は,お世話になった人達との別れを悲しみ,乗船することを泣いて嫌がったそうです。
それからおよそ80年後の平成14年(2002),今上陛下,皇后陛下はポーランドを訪れ,孤児だった人達にお会いになられました。そのうちの一人,アントニーナ・リロさんは既に85歳になっていて,涙を流しながら美智子皇后陛下の手をずっと握り締めていたそうです。
【いくつかのインターネット情報をまとめさせて頂きました】