NO:832

 おはようございます。
今朝の大阪は大変良いお天気になって最高気温は16°まで、明日は何と21°まで上がる予報です。
春はもうすぐですね。笑

 さて、今月7日は「北方領土の日」ということで、この男がいなければ、北方領土どころか、北海道全域がロシア(ソ連)に取られていた?と、樋口季一郎のお話しをご紹介して参りましたが、今日が最後のお話しとなります。

 ところで、今月はもう一つ、明日は「竹島の日」です。
こちらも、戦後韓国に不法占拠されたままになっていますが、もっともっと大きな国民の問題として、何としても早く取り戻さないといけませんね。

『オトポールの恩を返すのは、今しかない』

 1945年(昭和20年)8月15日、樋口は、第五方面軍司令官として北海道で終戦を迎えます。
しかし、それで戦争は終りではありませんでした。
終戦から3日後の1945年8月18日未明、突如、ソ連軍が一方的に日ソ不可侵条約を破り、千島列島の最北端にある、占守島(しゅむしゅとう)に上陸を開始、スターリン(ソ連最高指導者)の狙いは、樺太と千島列島・北海道の占領でした。

戦後のどさくさに紛れて上陸し、ソ連による統治を規制事実化するつもりだったのです。

 そして、その第一歩として、千島列島の最北端に位置する占守島に上陸、そこから一気に南下して北海道を占領する計画でした。
この、終戦後のソ連軍の上陸の情報を聞いた樋口は、占守島に駐屯していた、大日本帝国陸軍92師団に対し、「断固反撃に転じ、ソ連軍を絶滅すべし」と、命令を出します。

 この樋口の決断による占守島の戦いにより、ソ連の千島列島・北海道占領計画は大きく狂います。
スターリンは、南樺太の第87歩兵軍団に、北海道上陸の指示を出していましたが、占守島で大きな損害を出したことにより、北海道占領を断念、かわりに部隊を択捉島(えとろふとう)に向かわせ、国後(くなしり)、色丹(しこたん)、歯舞(はぼまい)諸島を占領し、北方四島の不法占拠は現在に至ります。

 しかし、もし樋口が終戦後の反撃の決断をせず、ソ連軍に無抵抗で占守島を明け渡していれは、そのままソ連軍が北海道に進行し、日本は、東西ドイツや南北朝鮮のように、分断国家になっていた可能性が高かったでしょう。

こうして樋口は、日本分断阻止という奇跡を成し遂げたのです。

 しかし、占守島の戦いで戦後計画を狂わされたソ連は、最後の最後まで樋口を追い詰めます。
戦犯(戦争犯罪人)として、スターリンが樋口を指名したのです。
戦後の混乱の中、一気に北海道まで攻め込もうとしたソ連からしてみれば、それを阻止した樋口は憎むべき司令官です。

 なんとしても、戦犯として捕え、処刑すべき存在だったのです。
連合国に対して、樋口の身柄引渡しを要求したのでした。しかし、連合国軍最高司令官マッカーサーは、ソ連からの引渡し要求を拒否、逆に樋口の身柄を保護します。

 実は、マッカーサーの背後にあったのはアメリカ国防総省、その、アメリカ国防総省を動かしたのは、ニューヨークに本部を置く世界ユダヤ人会議なのでした。

 世界ユダヤ人会議は、樋口の戦犯指名をいち早く察知すると、ソ連の要求を拒否するようアメリカ国防総省に訴え掛けます。
世界ユダヤ人会議の幹部の中には、オトポールの「樋口ルート」で命を救われた者もいました。

 ユダヤ人金融家によるロビー活動も始まり、彼らは、「オトポールの恩を返すのは今しかない!」と、世界的な規模で樋口救済運動を展開します。

 それを、無視出来なくなったアメリカ国防総省は、樋口の身柄をソ連から保護するようマッカーサーに命じたのでした。

 こうして、スターリンの計画は、またも打ち砕かれたのです。
こうして樋口は、終戦後の1946年まで北海道の小樽市で過ごしたあと、宮崎県都城市を経て、東京都文京区へ移り住みます。

 樋口は晩年、「日本の歴史化は、あの戦争の負け戦ばかりを伝えている。
中には、あの占守島の戦いのような勝ち戦もあったし、だからこそ、今の日本の秩序や形が守られている。負けを語ることも大事だが、その一方で、重要な勝ち戦があったことも、しっかりと残して欲しい」と、語ったと言います。

 アッツ島の絵の前で、毎朝、戦死者の冥福を祈っていた樋口は、1970年82歳で、その激動の人生に幕を降ろします。

【インターネットや本等をまとめました】

▢戦後の混乱期、各部隊には東京の大本営より、「武器を置くよう」指示がありました。
 軍人にとっては何より重要な上官の指示、破れは軍法会議です。
 しかし、ソ連はそんな甘い国ではないことを知っていた樋口は反撃を指示し、北海道を
 守りました。

 また、ソ連は同様に、内モンゴルと満州にも武力侵攻して来ました。
 そして、内モンゴルは、以前のやさしさ通心でご紹介しましたように、樋口と同じように根本博中
 将が反撃を指示、民間人を含め2万人以上を助けていますが、満州は無抵抗だったため、シベリア
 抑留者を含め、ソ連兵による略奪、暴行、虐殺等、大変悲惨な状況に陥りました。
 そういう意味でも、樋口少将の判断は、戦後の日本を救う判断だったのです。