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おはようございます。
あの阪神淡路大震災から、昨日で丸30年経つんですね。
南海大地震も心配されていますが、「天災は忘れた頃にやってくる」。しかし我々日本人は、この予期せぬ出来事を成長の大きな糧にして来たように思います。
近現代での大きな出来事と言えば、明治維新の発端となった「黒船来航」もその一つですが、今朝はその黒船の提督ペリーが、当時の日本と日本人をどのように見ていたか?
ご紹介したいと思います。
お時間のある時にでも、ゆっくりお読みくださいね。
『170年前にペリーが見た、江戸時代の日本の姿』
今から172年前の1853年、4隻の異国船が江戸時代の静かな日本海域に姿を現しました。
船には防水と防腐のために、黒い塗料が塗られていたことから「黒船」と呼ばれ、初めて異国の船を目の当たりにした人々は大変驚き、艦隊が入港した浦賀にはたくさんの見物人が押し寄せました。
この艦隊には日本の未来を大きく変えることになる、アメリカのペリー提督が乗船していました。
「泰平(たいへい)の眠りを覚(さ)ます上喜撰(じょうきせん)、たった四盃(しはい)で夜も寝られず」これはアメリカのマシュー・ペリー提督が黒船で来航したときのことを歌ったものです。
「上喜撰とは高級なお茶のことで、わすが4杯で眠れなくなるほど強い効果があるということと、ペリーが蒸気船4隻を引き連れて日本に来た事実とを掛け合わせています」
この歌の通り、1853年に来航した黒船は、日本の長い眠りを覚まし、開国へと導くことになります。ペリーは日本での感動や驚きの一部始終を彼自身の日記に詳細に書き残しています。
その記録は編纂され、「ペリー日本遠征記」として日本でも多くの翻訳本が出版されていますが、要約されているものが多いため、一般には知られていない部分がたくさん存在しています。
そこで今回は、英語の原書から日本語版ではあまり訳されることのない箇所を中心にご紹介したいと思います。
横浜村を訪れたペリーは、一帯を調査するため数人の士官とともに上陸しました。
この温帯地域ではすっかり春爛漫を迎え、野原やだんだん畑は新鮮な緑に覆われ、周囲の谷や丘には新緑が広がり、木々が豊かに生い茂っていました。
この小さな村の人々は、主に役人、商人、労働者の3つの階級に分かれているようでした。
下層の人々も、ほとんどの人が裕福で満足した生活を送っているように見受けられました。
最下層の人々でさえ、比較的きちんとした服装をしており、粗い綿の衣服を身に付けていました。
すべての階級の男性は非常に礼儀正しく、見知らぬ我々に興味を抱いていたとしても、不快になるほど干渉する事はありませんでした。
また、彼らの日常は社交的であり、友好的な交流が頻繁に行われています。
「女性の地位」日本の社会には、他の東洋諸国と比べても明確に優れている、ある特徴があります。
それは、女性は平等なパートナーとして扱われ、奴隷として扱われていないことです。日本の母、妻、娘は、中国や朝鮮の伝統的な家庭構造に見られるような厳格な役割に縛られることはなく、トルコのハーレムのような、単なる快楽の対象とされることもありません。
また、一夫多妻性が存在しないという事実は、日本の人々を東洋の中で最も道徳的かつ洗練されている存在と位置づける顕著な特徴です。ですから日本の女性は、高い品格だけでなく、家庭における美徳が広く受け入れられていることを物語っています。
日本の女性は、結婚している人の黒く塗られた歯を除けば、容姿が良いです。若い女性たちは体形が良く、魅力的で、その振る舞いは自信と活気に満ちています。
これは彼女たちが、社会から高い尊敬を受けていることのあらわれだと思われます。
日常生活において、女性は友人や家族との交流の中心となっており、日本の女性たちもアメリカと同じようにお茶の時間を楽しんでいます。
日本の女性たちは高い品格を持っており、艦隊が江戸湾に滞在している間、船員たちとの間で発生した女性との関係においても、一般的に考えられているような好ましくない行いは一切見られませんでした。「下田訪問」下田の町は日本の南部、江戸湾の入り口近くにあります。
驚くべきは下田の都市設計で、清潔さや健康に対する配慮が私たちの国よりも先進的であることを示しています。排水溝だけでなく下水道もあり、これらは汚水を直接町を流れる小さな川に流しています。下田の家の総数は約1000件程度と思われ、住民数は大体7000人です。
その中の5分の1が店主や職人です。
しかし、他の日本の地域と同じく、町には生産活動に直接貢献しない役人、兵士、家来などが多く存在し、下層階級の労働の成果を大量に消費しています。
それにも関わらず町の人々は比較的裕福に見え、物乞いを目にすることはありません。
「江戸時代の風呂文化と信仰心」この地域の人々は、日本人特有の礼儀正しさと控えめで温かい態度を備えています。しかし、公共浴場での男女混浴の光景は、アメリカ人の視点からすると、道徳観について好意的な印象を受けるものではありませんでした。
ただし日本の下層階級の人々は、他の多くの東洋諸国の住民よりも、はるかに高い道徳性を持っていて、それにもかかわらず奔放な人々です。
また、日本には多くの礼拝の場所が存在することから、彼らは非常に信仰深い人々であると考えられます。そして、日本特有の宗教は繁栄し、キリスト教を除くすべての種類の信仰も、寛容に受け入れています。
※しかしキリスト教に対して日本人は、数世紀前にローマ教皇庁の政治的な陰謀の結果、強い反感を抱くようになりました。これはかつて日本人がポルトガル人を追放した時代から伝統的な敵意が根付いており、権力者によって世代から世代へと伝えられてきたものです。
【なるためJAPAN】より
□この、※キリスト教が敵意を持たれた経緯についての記述は、来週ご紹介させて頂きます。
それにしても当時から日本は、世界中にあった奴隷制度が無いことはもちろん、男女が平等であり、どんな階層の人々も清潔な町で、豊かに穏やかに楽しく暮らしていたことが大変よく分かります。そしてそれはやはり、先週ご紹介した李登輝さんがおっしゃるような「公」の心が、日本人一人一人の心の中にあったからだと思います。
人間どんなに時代が進んでも、絶対に一人では幸せになれないばかりか、生きられません。
そのことを、自分自身も公の恩恵を受けていることを、仏教では「※四恩」と言いますが、子供の頃に教える必要があるのだと思います。
※四恩とは=「父母の恩」「衆生の恩」「国王、社会の恩」「三宝の恩」の四つの恩のことで、父母の恩とはお腹に命が宿ってから大人になるまで、生み育ててくれた多大な恩。
衆生(しゅじょう)の恩とは、生けとし生きるもの全ての恩。
他の生き物の命を頂いて生かされているこの身体、また生活のための衣食住に関わるすべての人たちからの恩。
国王、社会の恩とは王様という事ではなく、国や国際社会の平和のために努力している人たちへの恩。
三宝の恩恵とは、聖徳太子の17条憲法の第二条にある、仏・法・僧の恩のことです。