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 おはようございます。
さあ、いよいよ8月も最後の週末、来週からは9月ですね。しかし、今日の大阪の予想最高気温は36℃、まだまだ真夏の日差しが続いていますね。

 どうぞ、お気を付けてお過ごし下さい。
さて、今朝も先の大戦のお話をご紹介させて頂きます。今朝は、今でも政治家が参拝すると中韓が問題視し、そしてその中韓のご機嫌を取るマスコミが騒ぎ立てる靖国神社のお話です。

 この靖国問題を中国が言い始めたのは、40年前の1985年、時の首相・中曽根康弘氏が公式参拝をした時が最初でした。
尖閣諸島問題もそうですが、戦後何十年もなにも言わなかったのに、急に、自分たちの都合で大声で言い出すのはいつもの中国の手口です。

 そして、それに乗っかるように韓国も言い出し、日本のマスコミが更に炎上させたのが靖国問題です。普通、日本のマスコミなら、「中国、韓国は何を言っているんだ!」と、日本の立場でものを言わないといけないのに、本当に情け無い話しです。

 しかし30年程前、この中韓で炎上する靖国神社を米CNNが取材しました。
そして、その靖国神社で出会ったパラオ人、イナボ・イナボ氏にインタビューし、その内容を伝えたのが今朝のやさしさ通心です。

 少し長いですので、今週と来週に分けてご紹介させて頂きます。

『見捨てなかったのは日本だけ』

CNN記者「今日はどうして靖国神社に来られたんですか?」

イナボ氏「今日は恩人に会いに来たんです」

CNN記者「恩人ってどういうことですか? あなたは日本人ではないでしょう?」

イナボ氏「私はパラオから来ました。そして私たちの国は第二次世界大戦中、日本の占領下にありました」

CNN記者「日本に占領されていた国の人が、どうして靖国神社に? あなたは、中国や韓国の人々と同様に、恨みを晴らしに来たんですか?」

イナボ氏は首を横に振りながら答えました。
「あんな卑怯な人々の声を信じてはいけません!あなたに本当の歴史を教えないといけないですね」そして、パラオの歴史について話し出しました。

「遡ることを1885年、パラオはスペインの植民地となり、穏やかに暮らしていたパラオの人々の生活は一変してしまいました」

スペイン兵は、「土人ども、我々のもとで働けることを有り難いと思え!」と言いました。
スペイン人は、パラオの人々に過酷な重労働を強い、人間として扱うことはありませんでした。

 しかし、パラオの人々は抵抗する術すらなく、ただ与えられた過酷な環境に耐え続けるしかなかったのです。やがて、スペインは戦争に敗れ、経済的に困窮しました。

その結果、パラオ含むアジア・太平洋の植民地はドイツへ売却、そして新たな支配者となったドイツのもと、パラオの人々はさらなる地獄を経験することになります。

 ドイツはパラオでリン鉱石の採掘やタピオカの栽培など、あなたの産業を次々と開始しました。
さらに、新たに起こした産業の効率化と貿易を進めるため、運河の建設にも着手しました。

 しかし、それらの作業は全て手作業で行われ、パラオの人々の労働は、まさに命を削るような日々だったのです。

パラオ人「お願いです。ちゃんと働きますので、もう少しだけ我々に休息の時間を、与えてくださらないでしょうか?」

ドイツ兵「土人に拒否権などない!1日3時間も寝れば十分だろう!」

ドイツ人は怒号を飛ばし、採掘や運河工事は利益優先のため、容赦ないスピードで進められていきました。

 当時、労働に対する賃金は一切支払われず、人々は疲労と飢えに蝕まれていきました。
さらに、追い打ちをかけるように、島では伝染病が蔓延、しかし、島に唯一ある病院はドイツ人のためのもので、パラオの人々に救いの手を差し出す人はおりませんでした。

 そして、パラオの人口は90%も激減し、約6万人いた島民は約6千人にまでなっていました。
そして、その影響はイナボ氏の家族にも。当時6歳だったイナボ氏には10歳になる兄がいました。
それまで兄弟揃って軽作業のタピオカ栽培に従事していたものの、兄は10歳になった途端、大の大人たちに交じり、重労働であるリンの採掘を課せられることになりました。

 休む暇もなく寝る時間さえも奪われ、わずかな食事だけで働き続けた兄の体は、次第に限界を迎えていたのです。

 そしてある日、イナボ氏の兄は倒れてしまいました。
日に日に衰弱していく兄をただ見守ることしかできなかったイナボ氏。

 そしてある朝、目を覚ましたイナボ氏が見たのは、一生忘れることのできない光景でした。
「お兄ちゃん! ねぇ、起きてお兄ちゃん! お願い目を覚まして!」

 昨日まで、イナボ氏の隣で寝ていたはずの兄が、冷たくなっていたのです。
イナボ氏の泣き叫ぶ声に目を覚ました両親も、目の前の変わり果てた兄の姿に絶句し、その場に崩れ落ち叫ぶように泣き続けました。

 兄を失った父は、ポツリと口を開きました。
父「もう限界だ。俺はお前まで兄のように死なせたくない。 このまま生きていても死んでいるのと何ら変わらない。だから俺は戦う!」

父は、仲間たち数人とともに、支配するドイツ兵に立ち向かうことを決意。

 それを聞いたイナボ氏は、必死に父の腕を掴み止めようとしました。
「お父さんお願いだから行かないで! あいつらに刃向かったって勝てっこない!」

 しかし、イナボ氏の抵抗も虚しく、父はその手を振りほどきました。
お前の未来を!そしてこの島を守るために必要なんだ!
そう言い残すと、父とその仲間たちは背を向け、夜の闇へと消えていったのです。

 そしてその翌日、恐れていた事件が起こってしまいます。
島民たちは朝早く、ドイツ兵たちに広場へと集められました。
そこには、イナボ氏の父をはじめ、犯行を試みた数人の大人たちが磔(はりつけ)にされていました。

ドイツ兵「いいか土人ども、お前たちが俺たちに歯向かうとどうなるのか?その目でよく見ておけ!」

ドイツ兵を前に、イナボ氏は恐ろしくて磔にされた父を直視することは出来ませんでした。

 しかし次の瞬間、イナボ氏は衝撃的な言葉を聞いたのです。

「イナボ、お前は何があっても生きるんだ!」

なんと父が、最後の力を振り絞って、イナボ氏に叫んだのです。
そして次の瞬間、その声を遮るように、無数の銃弾が容赦なく父に降り注ぎました。

イナボ氏の目の前で父は息を引き取ったのです。

「あの光景は、今でもたまに夢に見ます。 兄に続き父までも、私は愛する人を目の前で亡くしました。当時、人の死は私にとってとても身近なものとなっていましたが、父と兄を1度に亡くした当時の私は、ただただ絶望しました。そして占領国には反抗してはいけないものだと、あの時思い知らされました」

 それまでイナボ氏の言葉にじっと耳を傾けていたリプリー氏、イナボ氏の語る想像以上の悲惨なパラオの歴史に衝撃を受け、言葉を失ってしまいました。

 しかし、そんなパラオに新たな支配者が現れることで、パラオ国内を巻き込む大事件へと発展していくことになるのです。

「私が恩人に出会ったのは、その少し後でした」

 イナボ氏は懐かしむように空を見上げながら語りました。
そのあと、ある日突然にパラオに駐留していたドイツ兵たちは、何の前触れもなく島から撤退。
静けさの戻った島に、次にやってきたのは日本兵たちでした。

パラオ人「ドイツ人よりもひどい奴らが来たら、俺たちはどうしたらいいんだ?」

「長老が言うには、ニホンジンはドイツ人より厳しいらしい。
 土日も無く一日中働いているんだとか」

 ドイツ人がいなくなり、ひと時の安堵を覚えたパラオの人々でしたが、新たな支配者が決まったことで、島民は不安に包まれていました。

 かつて、支配者がスペインからドイツへと変わった時、状況が良くなるどころか、むしろ絶望が深まった記憶が、今も冬眠の胸に焼き付いていたのです。

イナボ氏「どうせ、誰が来たって同じさ
     俺たちは死ぬことも許されず、この地獄を永遠に生きるしかないんだ」

イナボ氏の胸にも不安は広がっていました。

 そして、運命の日がやってきました。
海岸に日本兵が上陸すると、島民たちは日本兵から衝撃的な言葉を投げかけられることになるのです。

日本兵「今日からお前たちは我々と同じ日本国民となった!
    貴様らはまず、その汚い身なりをどうにかしろ!
    日本国民たるもの毎日必ず風呂に入り、飯は毎日3食必ず食べること!
    読み書きのできない者たちは、学校を用意するので、必ず通うこと! 以上」

 日本兵の大きな声と険しい表情、そして威圧的な姿にパラオの人たちは思わず怯えました。
命令のように告げられたその言葉は、支配ではなく、変化を告げるものでしたが、その真意が島民たちには理解できなかったのです。

 そして、数日後、イナボ氏を始め、島の子供たちのもとにあるものが届きました。
それは、教科書や通学用の服と「毎日学校へ通うように」と記された通知。

 しかし、長年の支配に苦しんできた大人たちは、警戒を解くどころか、新たな支配の始まりではないかと懸念しました。

「学校?子供たちを私たちの目の届かない場所に集めて、今度は何をさせるつもりだろう?」
「服や本を与えて、そのまま外国へ売られてしまうのかしら?」

 そんな声が島のあちこちで聞こえました。
大人たちは恐怖と迷いの中、しぶしぶながらも、子供たちを学校へ送り出すことにしたのです。

 そして、イナボ氏も恐る恐る日本人が用意した学校へと向かいました。
しかし、そこで待っていたのは、日本語や算数を教える授業、今までのような過酷な労働を課せられることは一切ありませんでした。

 そして学校では、女子生徒には裁縫や料理、男子生徒には、体操や木工細工といった生活に役立つ技術も教えられました。

 さらに学校には、子供たちにとって大きな楽しみとなる「学校で出される昼食」があったのです。

[来週に続く]

【世界が驚くJAPAN】より