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おはようございます。
昨日は終戦の日、大東亜戦争終結から80年を迎えました。
あの戦争を体験した人はほとんどいなくなりましたが、いまだに戦後の自虐史観教育に洗脳された多くの日本人が日本を貶め、戦後育った私たちは、日本のために!親や兄弟、子や孫たちのために!と、命を捧げてくれた先人たちに、感謝の心を持たずに育てられています。
もうそろそろ終わりにしなければなりません。
そんな思いで、今朝は8年前の終戦の日(2017年8月15日)に、靖国神社で行われた『追悼と感謝の集い』の中から、沖縄県から参加された我那覇真子(がなは まさこ)さん(当時28歳)のスピーチをご紹介させて頂きます。
私も今朝のやさしさ通心を作りながら、ついつい涙してしまいました。
『日本と世界の未来を担う若者からの提言』
我那覇真子
皆様こんにちは。沖縄県より参りました。我那覇真子と申します。
靖国に眠る英霊の方々に、※尊崇の念と感謝の言葉を捧げたく、沖縄県より参りました。
※尊崇の念(そんすうのねん)=相手を敬い、尊敬すること。
中略
御国の盾となり、※散華された英霊の方々に、深く感謝申し上げる一人でもあります。
※散華(さんげ)=花を散らす。転じて、若くして戦死すること。
そして、そのご恩にどうお応えするべきなのか、自らに問う者でもあります。
私の住む沖縄県においては、沖縄戦に多くの県民が率先して防衛の任にあたり、戦火に倒れました。
私の親戚にもそのような方は多くいます。
その中に、当時17歳で学徒動員に応じた女性がいました。
沖縄県第三高等女学校に在籍していた彼女は、最後の挨拶に私の祖母を訪ねています。
その身を案じた祖母は再考を促したのですが、彼女の決意は固く、決然としてこう言ったといいます。
「おばさん、私もまだ17歳だけど、やりたいこともたくさんあるけれども、今は御国のために征(い)くことが本望です」
そして、帰らぬ人となりました。
私はこの話を父から聞きました。父は熱く語りました。
その時私は、なぜかまるで、自分が時空を超えて、その場に居合わせているかのような感じがしました。魂の震える思いがしたのです。
このような時に、こういった強い思いに駆られるのは私だけではなく、多くの国民に共通するものだと思います。
これは人として自然の情であると私は思いますし、かつて御英霊の方々そこが、この魂の震えに立ち上がったのだと思うのです。
72年前、沖縄戦の口火を切ったのは沖縄県出身の伊舍堂中佐率いる神風特攻隊です。
その伊舍堂中佐は出撃前に、こういった言葉を残されています。
「自分は戦死することは何とも思っていない。しかし、この戦争が終わった後の日本はどうなっているんだろう?」
日本はどうなったのでしょうか?
私が思うに、靖国に眠る英霊を語る時、戦後最大のタブーがここにあるのです。
古来より我が国は、「後に続く者があることを信じて」国難を乗り切ってきました。
これは日本国を貫く約束事であります。国難に殉ずるのはそのためです。
しかし戦後日本はどうなったのでしょうか?
テレビに象徴される底なしの文化の退廃と白痴化、例えば全国の成人式における幼稚園児にも劣る低俗な乱痴気騒ぎ、この現代の日本の醜い姿は、英霊の方々にとても説明出来るものではありません。
個人的な思いとして私は、英霊の方々に感謝と同時に、お詫びをしなければならないと思います。
「英霊の皆様、誠に申し訳ございません。皆様が身を盾に残された日本が、このようになりました。 英霊の皆様ごめんなさい。今の日本は自らの誇りを捨て、隣国に侮辱され、国家主権を犯される情け無い国になりました」
恥ずかしい限りであります。それでも私たちは、日本人として生きていきたいのであります。
日本を愛するが故です。英霊の皆様、今少しばかりお時間をいただきたいと思うのです。
後に続く者があることを信じて頂きたいのであります。祖国日本は再び立ち上がります。
そうしなければ、皆様の魂が死んでしまいます。
私たちは、英霊を二度死なせる訳にはいきません。
以下、略。
我那覇 真子(がなは まさこ、1989年〈平成元年8月10日生まれ)
フリージャーナリスト、予備自衛官。
「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員、
日本文化チャンネル桜沖縄支局キャスター。
参政党外部アドバイザー。