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おはようございます。
これまで中国に気を使い、「台湾は中国の一部」としてきた政府が、やっと戸籍の国籍欄に「台湾」と表記することを可能にさせました。
そして今日は「竹島の日」。前々回のやさしさ通心にも書かせて頂きましたが、なぜ政府はもっともっと強くしつこく発信しないのか?
韓国の対応がどうであろうが、何度も何度も国際司法裁判所に持ち込み、何度も何度も強く国際社会に訴えるべきです。
明治維新以降大東亜戦争までの日本もそうでした。日本は国際法を尊重し、歴史の事実を重視して近隣諸国にも欧米にも誠実に対応して来ました。
しかし、近隣諸国も欧米も、国際法や歴史は単なる政治の武器でしかありません。
今の日本の移民受け入れ問題も、日本社会のモラルが低下し、外国人犯罪が多発して、誠実でおとなしい多くの日本人が、嫌な思いをしたり、騙されたらするニュースを見ると、大変腹立たしく思います。
今朝は、日中戦争の真実と南京大虐殺の虚構の真実をご紹介させて頂きます。
ぜひ、誠実でおとなしい日本人の皆さんに、目を覚まして頂きたい思いです。
少し長いですが、お時間のある時にでもゆっくりお読みください。
また、最後のYouTube動画もぜひご覧下さい。
『なぜ「南京大虐殺」などという虚構が作られ、広められたのか?』
今朝は、以下の3冊の本をまとめ、私の主観も交えてご紹介させて頂きます。
『一目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神』 (PHP研究所)水間政憲 著 2013年発行
→ほとんどが当時の写真で構成された大変分かりやすい本です。
『理論近現代史学』「本当の日本史」
(扶桑社)藤 誠志 著 2017年発行
→先々週ご紹介したアパグループ代表元谷外志雄氏の本です。
『日中戦争真逆の真相』「・・・背後には、中国共産党 毛沢東 のしたたかな戦略があった」
(ハート出版)茂木弘道 著 2024年発行
→ この本の著者、茂木弘道様は「南京事件の真実を検証する会」監事で、前々回のやさしさ通心に対し以下のような主旨のメールを頂戴し、大変嬉しかったです。
田畑均様
いつもメールお送りくださり、有難うございます。
元谷さんの南京事件論、ご紹介いただき有難うございました。
これで相手はグーの音も出ないと思います。
私も、南京につきましてはいろいろやってきました。
特に相当効き目があったと思いますのが、胡錦涛への公開質問状です。
平成20年(2008年)5月、中国の胡錦濤主席(当時)が日本へ来た時に、日・中・英の三ヶ国語で書いた「胡錦濤国家主席陛下への公開質問状」という文章を中国大使館へ届けました。
茂木様、本当にありがとうございました。
内容は、ほぼ先々週ご紹介した元谷氏の『南京大虐殺が虚構である8つの証拠』と重複しますので、ここでは割愛させて頂きます。
また、そして、一番最後には、南京大虐殺があったとされる1937年(昭和12年)12月の翌年、1938年(昭和13年)に封切られた記録映画『東方文化映画部作品』のURLを貼り付けておきますので、ぜひご覧頂き、広めて頂きたいと思います。
この映画は、日中戦争における南京攻略と南京攻略終了直後の南京場内外の様子を撮影した日本の記録映画です。
この記録映画の撮影班は、1937年(昭和12年)12月12日未明に南京へ向けて出発。
南京攻略の翌日14日に南京に到着し、そのまま年を越えて1月4日まで撮影を続けました。
このフィルムは、都合の悪いGHQや中共によって焼失されたものと長年考えられてきましたが、1995年(平成7年)に中国の北京で発見されました。
「南京大虐殺など無かった!」という決定的な証拠の映像です。
映画の内容は以下の通りです。
中国兵捕虜にタバコを渡す日本兵
日本軍による南京入場式
日本軍による戦没者のための合同慰霊祭
南京にいた外国人により組織された国際委員会が設定した南京難民安全区域
南京の自宅に戻り始めた市民たち
赤十字看護婦の活動
「良民証」という中国人のための身分証明書の交付を行う日本軍
日本軍による正月の準備から新年までの様子
正月に爆竹で遊ぶ南京の子供たち
南京自治委員会の発足式
『なぜ「南京大虐殺」などという虚構が作られ、広められたのか?』
まず、以下の毛沢東の言葉からご紹介します。
昭和39年 社会党の佐々木更三委員長が、毛沢東主席に「中国に多大な損害をもたらして申し訳ない」と挨拶したところ、「何も申し訳なく思う必要はありませんよ。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。
中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか。
皆さんの皇軍の力なしには我々が権利を奪う事は不可能だったでしょう。
(毛沢東 著「毛沢東思想万歳」下 三一書房)
どういうことか?と言いますと、1912(明治45)年2月に中国大陸で清王朝が滅亡すると、中国大陸は荒れに荒れている状態でした。
多くの軍属が覇権を目指し争っていて、一般民衆は虐殺、略奪、強姦等、一番の犠牲者でした。
そんな中、特に力を持ったのが蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党です。
そして、お互いがお互いを倒そうとする中で共産党(※コミンテルン)に目を付けられたのが、当時治安維持のために中国大陸に派遣されていた日本軍です。
※コミンテル=1919年に発足した、共産主義を全世界に広げようとする国際共産主義運動の指導組織。
共産党は、日本軍に国民党軍を倒させようとしたのです。
つまり、日本軍は利用されたのです。
日中戦争のきっかけ「盧溝橋(ろこうきょう)事件」1937(昭和12)年7月7日も、日本軍を戦争に引きずり込むための謀略と言われていますし、その3週間後7月29日に起こった「通州事件」は、「古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺(とさつ)事件」だと、後にアメリカ人ジャーナリストは書きましたが、日本人(朝鮮人も含む)居留民225名と守備隊32名が、とてもここには書けないような残虐な方法で殺害されました。
犠牲者の方々の氏名、男女、年齢、住所等の記録が天津警察通州分署の公式記録が残っています。
しかし日本政府は6日後の8月4日に「満州事変以降の北支(中国北部)の権益のほとんどを放棄する」という画期的な和平案を決定し提案しました。が、今度は5日後の8月9日に、上海を視察中の大山勇夫中尉と斎藤興蔵一等水平が、また、ここでは書けないような姿で惨殺されました。
そして8月13日には、日本の民間人約3万人が居留する上海を、5万人を超える中国軍が包囲し、侵入して来ました。
この時に上海を守備していた日本軍はわずか4500名、翌14日には中国国民党軍による空襲も開始されたのです。(上海事変)
このことをニューヨーク・タイムズは、「日本軍は上海での戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、自体の悪化を防ぐためにできる限りのことをした。
だが日本軍は中国軍によって、文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。
中国軍は外国人の居留している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図があるかのように思えた」と報道しています。
上海での戦闘は、日本軍の大苦戦でしたが、海軍陸戦隊の大活躍と日本国内からの増援が間に合い、通州事件のような上海大虐殺の発生を防ぐことが出来ました。
そして、10月上旬までには日本軍7万人が上陸。中国軍も70万人にまで強化されていましたが、日本軍は11月9日に上海から中国軍を追い出し、制圧しました。
ただ、その時の日本軍の戦死者は1万76名、戦傷者3万1千866名という日露戦争以来の多大な犠牲を出す戦いでした。
そして、上海事変が全面戦争に発展すると、今度は中国政府は国際連盟に対して、「日本の行動は連盟規約違反」だと通告したのです。
すると何と国際連盟は、「中国への精神的援助」を決議し、日本が改めて出した前回と同じ和平案は 蒋介石 に拒絶され、更に、米国、英国に 蒋介石 への和平の説得を依頼しましたが、積極的な対応はありませんでした。
そして、いよいよ当時の中国の首都、南京攻防戦が始まります。
ここでは、なぜ新たに南京まで進出したのか?については割愛しますが、知って頂きたいのは、日本軍が制圧するまでの南京では、蒋介石の国民党軍によって、「漢奸狩り」(親日派市民の虐殺)が行われ、多い日には一日に数千人の市民が虐殺されていました。
また、外国人も多く住む中立地帯であるはずの「安全区」には、軍服を脱ぎ捨てて「民間人に化けた国民党軍の兵士(便衣兵)」が、武器弾薬を持ち隠れていました。
後に日本軍は、これらの便衣兵6670名を捕え、処刑していますが、これは全く国際法に違反した行為ではありません。
つまり「南京大虐殺」とは、自国の民間人を大量虐殺した「漢奸狩り」を隠すために、また、通州事件を国際社会から批判されないようにするために、日本軍が便衣兵を処刑したことに手を加え、作られたストーリーなのです。
ですから、日本軍が占領し国民党軍が去って行った南京市内には、続々と中国の民間人が戻って来ており、日本軍の南京占領時には20万人だった人口が、わずか1ヵ月以内に25万~30万人に増加したことが、「南京安全区国際委員会」の記録に書かれています。
自国の軍隊と一緒にいるより、日本軍と一緒にいる方が安全とは?どんな国なんだ?と、思ってしまいます。
これは南京に限らず、中国中のあらゆる都市で同様のことが起こり、中国の一般民衆は、日本軍を日の丸の旗を振って歓迎しました。
これは、たくさんの証拠写真があります。また、たくさんの中国残留日本人孤児が立派に育てられた背景には、このような日本軍の行動があったからだと思います。