NO:777
おはようございます。
さあ、今日から2月、本当に毎日が早く過ぎ去りますね。
大変寒い毎日ですが、来週はもっと寒くなるそうですよ。
くれぐれもご自愛下さいね。笑
さて、今年は戦後80年になりますが、自虐史観教育に洗脳されている頭を、一つ一つ検証して、子供たちには、歴史的事実の裏の正しい背景を、伝えていかなければならないと思います。
やさしさ通心の趣旨とは違うかも知れませんが、ぜひお読み頂き、ご家族や周りの方々に教えてあげて下さいね。
『日本人の奴隷化を食い止めた豊臣秀吉の大英断』
日本人が売られる様子を生々しく記しているのが、秀吉の※御伽衆(おとぎしゅう)の一人、大村由己(ゆうこ)の手による『九州動座記』の次の記述である。
※御伽衆=将軍や大名の側近に対して、相談に応じたり、自己の経験談を話す職名
「日本人を数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。
※地獄の呵責(かしゃく)よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主(宣教師)も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。
※地獄の呵責=厳しく責め立てる地獄の鬼
近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。
キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する」同胞の若者たちが鎖につながれて次々と南蛮船に押し込まれていく光景は大村由己にとってはこれ以上ないカルチャーショックだったに違いない。
日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然の安さで西欧人に奴隷として売られていることを、秀吉はこのたびの九州遠征で初めて知ったのだった。
何とも酷(むご)たらしい場面だが、当時の海外に出た西欧の商人にとって有色人種の奴隷交易はなんら恥じることのない商取引だった。
これはそもそも、1452年にローマ教皇がポルトガル人に対し「異教徒を奴隷にしてもよい」、という許可を与えたことが根底にあるという。
なお、牛馬の肉を手づかみで食べるというのは、西欧ではこの当時、食事にフォークやスプーンを使う習慣がまだ定着していなかったからだ。
ルイス・フロイスも日本人が器用に箸を使って食事する様子を驚きをもって本国に伝えている。
そしてそれは慶長元年6月19日(1597年)のことで、この日秀吉は、九州遠征の秀吉軍に勝手に同行していたポルトガル人で、イエズス会の日本における布教の最高責任者であったガスパール・コエリョを引見すると、次のような四カ条からなる詰問を行っている。
一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。
一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主(僧侶)を迫害し、彼らと融和(仲良く)しようとしないのか。一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。
一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか。という四カ条で、同時に秀吉はコエリョに対し追放令を突き付けている。
大村由己は自分が目撃したことを秀吉に報告したところ秀吉は激怒し、さっそく宣教師コエリョを呼びつけ、詰問したのだ。
するとコエリョは、「売る人がいるから仕方が無い」、そうケロッとして言い放ったという。
この言葉からも、こうした日本人奴隷の交易にキリシタン大名たちが直接的にしろ間接的にしろ関わっていたことは間違いないだろう。
海外に連行されていった日本人奴隷は、ポルトガル商人が主導したケースがほとんどで、その被害者はざっと5万人にのぼるという。
彼ら日本人奴隷たちは、マカオなどに駐在していた白人の富裕層の下で使役されたほか、遠くインドやアフリカ、欧州、ときには南米アルゼンチンやペルーにまで売られた例もあったという。
こうした実情を憂慮した秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。
そして、こうも付け加えた。
「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す」といった主旨のことを伝えている。
その一方で、日本国内に向けてもただちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発している。こうして秀吉の強硬な態度がポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易はやがて終息に向かうのであった。
もしも秀吉が天下を統一するために九州を訪れていなかったら、こうした当時のキリスト教徒が持つ独善性や宣教師たちの野望に気づかず、日本の国土は西欧列強によって侵略が進んでいたことだろう。秀吉はその危機を瀬戸際のところで食い止めたわけである。
そして、この追放令が出されたことで九州各地や京・大坂にあったイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊された。
しかし秀吉が、交易やキリスト教の信仰自体を禁止したわけではなかったため、ほとんどの宣教師たちは九州などにとどまり、非公認ながら布教活動を細々と続けたことがわかっている。
また秀吉は、この追放令を出したその理由の一つに、西欧人たちが胸に秘めた日本侵略の意図を読み取ったからだと言われている。
宣教師コエリョが秀吉を博多で出迎えた際、自分が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉を乗船させて、自分ならいつでも世界に冠たるスペイン艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に語ったという。
このとき秀吉は、彼らの植民地化計画を瞬時に看破したのであった。
それにもう一つ許せないのが、日本の大事な国土が西欧人たちによって※蚕食(さんしょく)され始めていることだった。
※蚕食=蚕が桑の葉を食うように、他の領地を片っ端から侵していくこと
たとえば、キリシタン大名の大村純忠は自分の領地だった長崎と茂木を、同じくキリシタン大名の有馬晴信は浦上の地をすでにイエズス会に寄進していたのだ。
日本国の支配者たる秀吉にとって、いかに信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土の一部を勝手に譲渡するなど言語道断の出来事だった。
西欧人たちがそれを足掛かりとして領地を広げていくことは火を見るよりも明らかだったからだ。
最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画が今まさに実行されようとしていたのだ。
秀吉はそれを防ぐためには、キリシタン大名や宣教師たちの勝手な振る舞いに一日でも早く歯止めをかける必要があると考えたのである。
これが、秀吉が「伴天連(バテレン)追放令」を出した理由である。
そして、慶長元年12月19日(1597年)、スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。
これはポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくるスペインに対する秀吉の見せしめであった。
ともすれば現代のわれわれは秀吉に対しキリシタンを弾圧した非道な君主というイメージを抱きがちだが、実際はこのときの集団処刑が秀吉が行った唯一のキリシタンへの直接的迫害であった。
それもこのときはスペイン系のフランシスコ会に対する迫害で、ポルトガル系のイエズス会に対しては特に迫害というものを加えたことはなかった。
【日本史の新視点】新晴正著 青春出版社より
□私は単に秀吉が「キリシタンを弾圧した」、「処刑されたキリシタンが可哀想」と思っていましたが、いかに戦後の私たちが「自虐史観教育」に洗脳されているのかがよく分かるお話かも知れません。
戦後80年、正しい歴史を知り、事実は同じでも、その背景が都合よく変えられていないか?
教えられていないか?を、一つ一つ検証していかなければと改めて思いました。