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おはようございます。
前回の今年最初のやさしさ通心で、「今年は、日本が復活へと向かう起点の年にしなければならない」と書かせて頂きましたが、今の日本は、国民の5人に1人が75歳以上の超高齢化社会で、医療や福祉に対する支出の多さから国民負担率が45%を超え、つまり、給料の半分近くが税金や社会保障費として取られ、また、物価高から実質賃金も4ヶ月連続で減少している現実です。
また、能登半島地震から一年経ちますが、いまだに、復興の目処も立っていません。
更に、不登校やいじめの問題、引きこもりや若者の自殺、移民の問題や中国、北朝鮮の脅威等々、上がればキリがない程、問題山積みの現状です。
そんな中、立憲民主党が「今年こそは!」と意気込んでいるのが「選択制夫婦別姓問題」で、新聞で大きく報道されていました。
「もっと大事なことがあるやろ!?」「国益って考えたことあるか!?」と、心の中で一人突っ込んでいましたが、自民党にもうんざりし、当然のように過半数割れしましたが、野党第一党もこれですから本当に日本の将来が心配になります。
今朝は、日本人の何が変わったのか?そんなことを教えてくれるお話です。少し長いですが、お読み頂けますと有り難いです。
『日本人は変質した』
門田隆将(かどたりゅうしょう)〈作家〉
台湾の第4代総統(1988~2000年)だった李登輝(りとうき)さんの話から始めます。
李登輝さんは「日本人が変質した」ということを誰よりも分かっている人でした。
李登輝さんはジャーナリストの櫻井よしこさんの大ファンで、櫻井さんが李登輝さんに呼ばれたものですから、櫻井さんにくっついて私も一緒に台湾に行ったんです。
1999年のことでした。日本統治下の台湾に生まれた李登輝さんは、京都帝国大学農学部で学ばれ、陸軍少尉として終戦を迎えています。その時22歳でした。
つまり、日本人として生まれ、日本人として育った人です。
1945年の終戦で日本国籍がなくなり、中華民国の国民となりました。
そして49歳で政治家になり、1988年65歳で台湾の総統となりました。
総統になってから李登輝さんは40年ぶりに日本人と会う機会が多くなり、その日本人が昔の日本人と全然違っていることに驚愕したというのです。李登輝さんは私にこう言いました。
「昔の日本人はね、誰に見られているとか、そんなこと関係なく、人のためになることを自然にやったもんだよ。例えば、家の前を掃除をする時、自分の家の前だけで終わる日本人はいなかったんだ。
右隣も左隣も。そして道の向こう側の家の前も必ず掃除をしたんだよ。そんな民族は他にない。
これ、分かりますか?」私は言いました。
「はい、分かります。それを日本では、「向こう三軒両隣と言います。日本では当たり前のことです」李登輝さんはさらに続けてこう言いました。
「そうなんだよ。それが日本人なんだよ。『私』を捨てて、世のため人のためにという『公』に対する精神を普通の日本人はみんな持っていたんだ。
俺は22歳まで日本人だったからそのことが分かるんだ。
この『公』というものへの意識を、戦後の日本人は失ってしまった。
『公』に対する意識が、戦前の日本人と戦後の日本人では全く違うんだ。
『公』というものを国家とか社会とか、そういうふうに戦前の日本人は捉えていなかったんだよ。
晩年の李登輝さんは色紙にサインを頼まれると、「我是不是我的我(ウォシーブシーウォダウォ)=私は私でない私である」という、非常に哲学的な言葉を書いていました。
この言葉の意味は、例えば私には息子が2人いますので「親としての私」がいて、同時に妻がいるので「夫としての私」がいます。
つまり、家庭の中で良い父親、良い夫の役割を果たしていますが、しかし、それだけでいいんですか?と言うことを李登輝さんは問うているのです。
李登輝さんが22歳だった頃までの日本人は、家庭の中の役割はもちろん果たしている。
だけど、それだけで終わっている人はいなかったと言うんです。
「公」とは、家庭の外にある社会です。国家もその一つだけど、もっと身近に関わっている職場、組織など、その中で果たす自分の役割を当たり前のようにやり尽くす人種が日本人だったということを言っていたわけです。
李登輝さんの「私は私でない私である」は、「公のためにあなたは何をしているのか。そのことを今の日本人は考えていないんじゃないか」ということを、戦後の日本人に突きつけた言葉だったんだなと私は思うのです。
戦後、日本人からそういう意識が失われていると改めて思いました。
私は今、『太平洋戦争最後の証言』シリーズ三部作を書かせてもらっています。それらは先の戦争の最前線で生き残った人たちを取材させてもらって書いた凄まじい記録です。皆さんはアメリカ陸軍史上最強と言われた「442部隊」を知っていますか?これは日系人で構成された部隊で、当時のアメリカ軍の世界最強の装備と、日本人精神を持っていたから、いまだに史上最強と言われているのです。
また、昭和17年の8月から半年にわたって日米両軍が凄絶な攻防を繰り広げたガダルカナル島での戦闘もそうでした。日本海軍はガダルカナル島の平地に飛行場を作っていました。
ルンガ飛行場です。それが、17年8月7日、一万人を超えるアメリカ軍の奇襲攻撃を受けてアメリカ軍に占領されたんです。その飛行場を奪還すべく、いくつかの部隊が投入されたんですが、そのうち唯一ルンガ飛行場まで辿り着いたのが、石橋哲次中尉率いる仙台第二師団の第七中隊でした。
私はその中隊の生き残りの元兵士、阿部さんという当時20歳だった方を取材しました。
阿部さんに「どうやって飛行場に辿り着いたんですか?」と聞きました。
突撃する前の夜に集められ、石橋中隊長がものすごい気迫で、「みんな聞け!翌朝突撃する。俺は白いタスキをする。みんなは俺の背中を見て突撃してこい!」と言ったんです。
皆さんはアメリカの機関銃の連射がどれぐらい凄いか映画で観たことがあると思いますが、ババババババババッって、とにかく凄いです。
一方、日本兵は単発の歩兵銃です。そんな機関銃を持った相手に向かって突撃できるわけないと思うじゃないですか。でも日本兵は突撃するんです。
そして、今まで一緒にいた仲間たちが、「ウッ!」「ウッ!」という声と共に何人も死んでいる。それでも石橋中隊長は突撃をやめないんです。機関銃は弾を補充しないといけません。必ずインターバルがあるんです。その間に突撃するんです。
それを繰り返し繰り返しやる。戦場とはそんなところです。
だから、相手からすると、ババババババババッて撃っているのに、どんどん近づいてくるから脅威なんですよ。その時どういう心境だったのか聞きました。
阿部さんはこう言いました。「まだ中隊長は生きておられる。まだ生きておられる。その中隊長の背中のタスキを見ながらついていったんです」そうやって、突撃!突撃!を繰り返して、ついには最後に「血染めの丘」と呼ばれる丘があってその丘を突破したんです。
そしたら敵の兵士は逃げ出したんです。そして、ルンガ飛行場を奪還したんです。ところが、辿り着いたものの、他の中隊が来ないんです。つまり補給も援軍もない。石橋中隊は孤立してしまったんです。そのうち別の方向から敵が撃ってきます。だから撤退せざるを得なくなるんです。だけどその時には周りを敵に囲まれてしまい、撤退もできない状況だったんです。その時、突然、日の丸をつけた零戦が上空に現れるんです。1000キロ以上も離れたらラバウルから飛んできたに違いありません。6、7機の零戦が敵陣を攻撃し始めました。
その間に我々は竹薮のジャングルに走り込めた、だから助かったんです。
「日の丸を見た時のあの感激が今も脳裏から離れません」と阿部さんはおっしゃいました。
また、ガダルカナル島は、飢餓の島で水もありません。
でも、南国特有の樹木には豊富な水分があってツルを切ると水が出てくるんです。
それを水筒に入れて、石橋中隊長に持って行ったことがあるんです。
「水が取れました」と言って、傷だらけの中隊長に「どうぞ」と言って差し出したら、「ありがとう」と言って飲む真似をするんです。
そして、「弱っている奴に飲ませてあげてくれ」と中隊長は言うんです。
「いや、中隊長も一口飲んで下さい」と言うと、「いや、俺は十分にいただいたから」と。
その話をしてくれている時、阿部さんの目からは涙が溢れ、とめどなく流れていました。
今、私たちがいるのは、間違いなくあの人たちのおかげです。
日本人が「公」の精神を失ったそのことを分かってくれる人たちに、私はこの話をさせてもらっています。
【日本講演新聞 2025年1月1日号】より
□選択制夫婦別姓とは、父や母、夫や妻である私より、ただ、私を優先したいがためだけの意見です。この問題で、一番の被害者は子供です。子供より自分を優先する親がいるのでしょうか?
私は結婚し婿養子に入りました。つまり、姓を変えたのです。
確かに仕事上、途中で姓が変わるのは大変面倒なことでしたが、営業をしていましたので、一つのお客様との話題として活用しました。笑
ただ、子供たちが成人したのをきっかけに十数年前に離婚し、もう一生結婚しないだろうし、また元の姓に戻すのも面倒くさいし、そのままの姓でいいかな?って思ってたんですが、昨年末に亡くなった母から、「均(ひとし)おまえ、墓はどうするんや?」「名字はそのままか?」と聞かれ、「確かにそうやなあ?実家は婿養子に行ったから出てるし、その婿養子に入った家からも出てるので、入る墓はないなあ?新しい墓作っても、後継ぎもいないしなあ」笑
「それと、離婚したんやし、やっぱり元の姓に戻そう」と思い、離婚後2年4ヶ月後に家庭裁判所で手続きし、元の姓に戻しました。それが、今の「田畑」です。
ここでちょっと家庭裁判所での面白い話をご紹介させて頂きます。笑
今、家庭裁判所も銀行のように、発券機で番号札を引いて順番を待つんですが、番号を呼ばれたので窓口に行き、担当者の方から、「今日はどうされたんですか?」と質問されました。
私は当然のように、「はい、姓(セイ)を変えようと思いまして」と答えました。
すると担当者の方は、私を足元から、ちょっと舐め回すように見て、「ああ、女性になるんですね?」って言うんです。(姓ではなく、性と思ったんです)笑
私はビックリして、「えっ?、いえいえ名字を変えようと思いまして」と答えました。
すると頷いて、「あっ、氏(ウジ)を変えるんですね?」と。その時もう56歳でずっと男として生きて来ましたが、これから女性(おばちゃん)になったら、どんな人生になるんかなあ?と、一人大笑いしました。笑
ですので、子供たちも婿養子に入った家の姓ですので、実の親子ですが名字が違います。
特に息子は、副業で私と同じ保険の仕事をさせていることもあり、人に説明するのに、やっぱり、一つのネタとして使っています。笑
今、職場では旧姓も使用出来ますし、選択制であっても夫婦別姓にする必要など、全くないと思います。