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おはようございます。
お盆も過ぎ、8月も残り一週間となりましたが、まだまだ異常な暑さが続いています。
くれぐれも熱中症等、お気を付け下さいね。
さて、今朝は平和の尊さを象徴する写真の一つとして大変有名な、皆様もよくご存知の「焼き場に立つ少年」についてのお話をご紹介させて頂きます。もう、何の解説がなくても、この写真を見るだけで心を打ち、目頭が熱くなります。特に私は、気をつけの姿勢をした少年の真っ直ぐに伸びた手の指先を見ると、それだけで波が溢れてしまいます。
先週ご紹介した早田ひなさんの言葉ではありませんが、今の平和な毎日が、当たり前ではないことを、改めて実感致します。
『1000の言葉よりも…』
2019年11月、被爆地ヒロシマ・ナガサキを訪れ、祈りをささげたローマ教皇。教皇を広島・長崎に導いたのは、被爆直後に撮影された一枚の写真でした。
「幼い10歳くらいの子供の写真です。弟の亡骸を背負って、火葬場の前で、直立不動で順番を待っています。長崎で原爆が落とされた後のことです」教皇は、この写真をポストカードにして全世界の教会に配りました。

『戦争がもたらすもの』と書き添えて。
「この写真は、1000の言葉よりも、人の心を動かし得るものです」
この写真を撮影したのは、ジョー・オダネルさん。米軍の従軍カメラマンでした。
父と同じカメラマンの道を選んだタイグ・オダネルさん(50)。
父が焼き場に近づき、若い男の子が緊迫して裸足で立ち、唇を噛み締めているのを見ました。写真を撮った後、唇から血が出ていたそうです。
父は生前こう語っていました。
「アメリカは間違っていたと思う。何の罪もない、おばあさん おじいさん 子供たちを殺してしまった。軍人は死んでいない。何もしていない人たちを殺してしまった」と。
タイグさんは、父が撮った写真「焼き場に立つ少年」がきっかけで、教皇フランシスコと長崎で対面することになりました。
タイグさん
「父の写真を使ってくださってありがとうございます」
ローマ教皇
「あなたのお父様はこの写真を通して、平和のために大変大きな貢献をされました」
一瞬の出来事でしたが、教皇様は私の目を見て話してくれて、とても誠実で謙虚な方でした。
その後、教皇は広島を訪れましたが、広島では2000人が出迎えました。
そして、被爆地広島から世界に向けて発信した14分間のメッセージ、その最後には、「今も核なき世界は訪れていない。だからこそ行動を続けて欲しい」教皇は一人ひとりに語りかけました。
「戦争はもういらない。兵器の轟音はもういらない。こんな苦しみはもういらない」。
【NNNチャンネルより】
焼き場に立つ少年 ジョー・オダネル(米従軍カメラマン)
佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。
彼らは60センチほどの深さに掘った穴のそばで作業をしています。
やがて、10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。 おんぶひもをたすきにかけて、2歳くらいの幼子を背中に負っています。弟や妹をおんぶしたまま広場で遊んでいる子どもたちの姿は、当時の日本ではよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的をもってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして背筋を伸ばし、気をつけで立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすりと眠っているのか、首を後ろにのけぞらせていました。
少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちがおもむろに近づいて赤ん坊を受け取り、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に焼けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がり、真っ赤な夕日のような炎が、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは。
少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が鎮まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。
【ネットニュースより】