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おはようございます。
最初に、先週のやさしさ通心では「老々介護」を「労労介護」と間違えて変換したまま配信してしまいました。お詫びして、訂正させて頂きます。
誠に申し訳ございませんでした。どうそよろしくお願い致します。
さて、今週は大変有り難い、嬉しいことが二つありましたのでご報告させて下さい。
一つは、神戸市にお住まいの女性の方から、「国旗バッチ裁判の勝利を心から応援しております」と、お手紙に加え 湊川神社のお守りもお送り下さいました。
湊川神社の御祭神は、楠木正成公と毘沙門天様だそうで、わざわざ「裁判に勝つためのお守りは?」と宮司にお聞き下さり、買い求めて下さったそうです。
この方がお書き下さいましたように、「祖国日本と日本国民のさらなる安寧と繁栄のために…」頑張りたいと思います。
またもう一つは、伊丹市にお住まいの男性の方が、「一度だけ日の丸裁判の応援(傍聴)に行ったが、そのあと仕事が忙しくて行けてないので」と、わざわざ私の自宅を訪ねて下さり、「笑門来福」の額と裁判費用の寄付をお待ち下さいました。
本当に頭が下がる思いで、感謝の気持ちと同時に、これまでも多くの皆様にご支援頂いているこの「日の丸裁判」、改めて強い責任を痛感致しました。とことん、最後まで闘いますので、今後とも宜しくお願い致します。
ということで今朝は、祖国日本の将来と子や孫たちのために命を捧げた、日露戦争当時の日本人のお話をご紹介させて頂きます。昔から今のロシアもそうですが、当時のロシアは周辺国と非常に大きな軋轢(あつれき)を抱えていました。
そんな時、そういった周辺国の反ロシア運動を支援し、デモやストライキ、鉄道破壊工作などを行って、ロシア軍が満州での日本軍との戦いに集中出来なくしたり、様々な情報かく乱や宣伝活動などを行い、ロシア兵の士気を喪失させることなども行っていたのが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも有名な明石元二郎陸軍大佐です。
そんな明石大佐に対して、ドイツ皇帝ヴィッセルヘルム2世は、「明石一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げた」と言い、参謀次長の長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」とまで言わしめています。
今朝は、その明石大佐本人のお話ではなく、その明石大佐に協力した民間人のお話をご紹介させて頂きます。当時の日本人たちが、どのような気持ちでこの日本を守ろうとしていたのか?そんな気持ちを、ぜひ、今の日本人の特に若者に知って頂きたいと思います。
日露戦争当時の日本人のお話
『日本軍20万に匹敵する男 明石元二郎陸軍大佐』より
日露戦争の頃は、工作要員、偵察要員のことを「軍事密偵(みってい)」と言っていました。今のスパイです。日露戦争当時、日本の軍事密偵は113人いましたが、生きて帰って来たのは9人だけだったそうです。中でも有名な軍事密偵は、横川省三と沖禎介という方です。
このニ人は、お坊さんに扮して満州に入って、ロシア軍の鉄道の爆破など、いろいろなことをやっていました。ただ、ニ人ともロシア軍に捕まってしまいました。実はニ人とも軍人ではなく民間人でしたので、普通は絞首刑です。
ところが、横川さんは軍人に対する礼を持って、「銃殺刑にして下さい。ライフルで撃って下さい」と頼みました。ロシア側は、「じゃあ、それでいいだろう」ということになったのですが、ロシア側自体が、このニ人の軍事密偵の態度に非常に感銘を受けたというのです。
礼儀正しいし、落ち着いているし、民間人でありながら国家のために命を捧げて、こんな、日本からかなり離れた所で、信じられないようないろいろな戦いをしていたのです。そして、捕まると潔く、死ぬ時は泣き叫びもせずに死ぬ、この姿に心を打たれたのです。
そして、ロシア軍の軍事裁判所などロシア側自身が、ロシア軍の総司令官のクロパトキン将軍に対して、「減刑にしてほしい」と要請したのですが、クロパトキンはこれを拒否しました。
そして、結局二人は銃殺されたのですが、その時このニ人は、非常に嬉しそうな顔をしたそうです。最後に「ロシア軍の裁判長ジャッジに対して、深々と礼をした」というふうに言われています。
そして、その横川さんなんですけれども、当時まだ幼いニ人の娘さんがいたのです。その娘さんに最後の手紙(遺書)を書きます。その中に、工作資金として日本政府からもらった500両という所持金が手元にあったそうです。手紙を書いて、そのお金を娘たちに送ろうと思ったそうですが、すぐに「それは良くない。ダメだ。スパイ活動のためのお金、日本政府からもらったお金というのは国民のお金である。国のお金であるから、自分が娘に送ってはダメだ」ということで書き直しました。
自分はもうすぐ死ぬわけですから、そのお金をどうすればいいかといった時に、「じゃあ、これは日本とロシアが戦っているから、ロシア側の赤十字に寄付をします」ということで、すべての工作資金を寄付したのです。
そして、これは日露戦争が終わった後の話ですが、この死刑を執行したロシア兵でシモノフというロシア人がいました。ロシアはその後、ロシア革命が起きて赤軍の時代、ソビエトになっていくわけです。そのシモノフは、共産革命が起きるので、後にロシアから日本に逃げて来ます。
そして日本に来てすぐに、シモノフは横川さんが残した娘さんに会いに行きました。「あなたのお父さんの立派な最期を、いつか直接お伝えしようと思って今日まで待っていました。
あなたに会えて、こんな嬉しいことはない」と、涙ながらに話したという娘さんと初めて会った時のお話が残っております。つまり、横川さんも沖さんも民間人ですし、決して明石さんのような大佐とか少将とか、そういったクラスの人では全くないのです。
ただ、一民間人として、軍籍ではなくても、国のために、こうやって戦って、最期はまるで武士のように、潔く死んでいったのです。それがやはり敵味方を超えて、今日(こんにち)でもこうやって名前を残すということになっているのだと思います。ですから、当時の日本人たちは、軍人も民間人もなく、敵と戦い、最期は潔く散っていったのです。その人たちの犠牲や血のうえで、今の我々日本の繁栄があるのだということを、我々は忘れてはいけないというふうに思うのです。
とにかく、当時の名もなき日本人たちの能力は非常に高いということがわかります。「だから今はダメなのか」ということではなくて、当然今も能力が高い人はいるのです。
ところが残念ながら社会や国が、そういうことを重視しない国になってしまったということではないかというふうに思います。
【世界から恐れられた七人の日本人】ダイレクト出版 丸谷元人 著より抜粋
ウキペディアから
▽以下、ウキペディアからです。
映画『二百三高地』(昭和55年東映製作 舛田利雄監督)は、横川と沖の処刑シーンから始まる。横川を早川純一、沖を村井国夫が演じた。テレビ版にも流用されている。横川 省三(よこかわ しょうぞう)元治2年4月4日(1865年)~明治37年(1904年4月21日)は明治期の新聞記者。スパイ。ロシア軍に捕縛され処刑された。
南部盛岡藩の出身。初名は勇治。
生涯
若い頃は自由民権運動に携わり、加波山事件により投獄された。その後朝日新聞の新聞記者として、千島列島探検隊の特派員や日清戦争の従軍記者などの活動をする。その後記者を辞め、アメリカでの農園経営やハワイ移民の斡旋などに携わった。
この間に娘が二人生まれたが、妻を亡くしている。
日露戦争開戦に際しては弟に娘を預け、青木宣純大佐率いる特別任務班のメンバーとなり、沖禎介とともに特殊工作に従事する。
ロシア軍の東清鉄道爆破任務のためラマ僧に変装して満州に潜伏する。
逸話日清戦争の際に従軍記者として戦艦の搭乗を希望したが、許可おりなかったので、「僕を機械の一部と思ってください」と頼み艦長を説得させた。最初の遺言で所持金を娘に託そうとしたが公金であるため、寄付に変更した。
後に横川省三の死刑執行官シモノフは、ロシア革命後、日本に亡命し、長女の律子に父の最期を伝えた。
沖 禎介(おき ていすけ)
1874年(明治7年)6月8日?1904年(明治37年)4月21日)は、明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。
経歴
東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後、横浜で貿易業に従事。1901年(明治34年)に中国に渡り、北京の東文学社の教師となる。
1904年(明治37年)、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。
横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑される。
処刑に際して当初は絞首刑を予定されていたが、彼らの態度が立派だったため現地の司令官がロシア皇帝ニコライ2世に請願し、銃殺刑に変更されたと言われている。