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 おはようございます。
10月に入り少し過ごしやすくなりましたね。
一気に寒くならないで、この過ごしやすい秋をもっともっと満喫したいものです。笑

 ところで、私たちは小さい頃から「嘘つきは泥棒の始まり」とか、「命の次に大事なのは信用だ」とか教わった来ましたが、石破新総裁には、もう本当に呆れてしまいます。
衆議院解散の時期といい、経済政策やアジア版NATOといい、上げればキリがありませんが、これほど言うことを簡単に変える人が首相とは、同じ日本人として恥ずかしくなります。

「政治家のレベルは国民のレベル」と言いますが、本当に情けなくなります。もう、政治に無関心では済まされませんね。
 今月27日の衆議院選挙では、しっかりと私たち国民の意思を見せつけたいものです。
さて今朝は、私たちの先輩である戦前の日本人たちが、いかに世界の人々から信頼されていたか。
というお話の一つをご紹介させて頂きます。

 今回は少しお話が長いので、今週と来週に分けてご紹介させて頂きます。

インドネシアで歌われている「愛国の花」という歌をご存知でしょうか。
愛国の花(あいこくのはな)は、1937年(昭和12年)にラジオの国民歌謡として作られ、1938年(昭和13年)、渡辺はま子の歌唱で日本コロムビアからレコード化された歌謡曲です。
福田正夫作詞、古関裕而作曲。歌のヒットを受けて、1942年(昭和17年)、木暮実千代、佐野周二主演で松竹により映画化されました。

 そしてその「愛国の花」は、インドネシアで今でも準国家として愛されています。
しかも、インドネシア語で歌うのではなく、何と日本語で歌うのです。なぜ日本語の歌が愛され続け、しかも準国家とされているのでしょうか?
今朝は、この歌「愛国の花」にかかわる日本とインドネシアの深い絆についてご紹介させて頂きます。

①『インドネシアの準国家 愛国の花』

 過酷なオランダの植民地政策インドネシアは17世紀後半から300年もの間オランダの植民地となっていました。19世紀にはの強制栽培制度により、コーヒーやお茶などオランダ向けの栽培地となっていました。これによりインドネシアの食料自給体制は解体し、多くの村が崩壊し、餓死者が増え、平均寿命は35歳にまで低下してしまいました。

 またオランダは天然資源の開発のため、インド人や中国人をインドネシアに移住させて、彼らを経済流通機関として働かせます。彼らがインドネシア人の上に立って支配するようになり、人種対立の原因となりました。更にオランダは、インドネシア人との混血児を大掛かりに作り、彼らを間接統治の管理者としました。

 行政官は華僑や混血児が担い、インドネシア人の政治参加や行政参加を禁止しました。オランダ政府はインドネシア人に重税を課し、さらに華僑が高利貸しとなり、200%の金利にインドネシア人たちは苦しめられます。分割統治のために、民族間の対立を煽って部族闘争は激化し、教育は禁止し愚民化政策を行います。

※愚民化政策(ぐみんかせいさく)=国民を「愚民」と呼ばれる政治的無知状態に陥れさせ、その批判力を奪おうとする政策。

 20世紀に入ると世界から批判を受けて、3年間の初頭教育は行いましたが、学校に通えたのはわずか数%で、上級学校に進学する者にはオランダ語を強制しました。大学を卒業したインドネシア人は年に10人程度と、非常に少なかったそうです。

 また住民に反乱を起こさせないために、青年の体育や団体訓練を禁止し、数人で歩くことも禁止します。住民の集会も禁止され、独立運動化など反乱意思があると思われる者は全て流刑や死刑に処されました。国旗掲揚や国歌斉唱はもちろん禁止で、インドネシア人が信仰しているイスラム教を弾圧し、キリスト教を広め宗教による対立も起こします。 このようなオランダによる過酷な植民地支配で、20世紀初頭には逆に住民に民族意識が芽ばえ始めます。

 1939年ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発。
英米は日本に対して厳しい態度で臨むようになり、オランダ植民地政府もいわゆるABCD包囲網もに加わります。

※ABCD包囲網=第二次世界大戦前、日本の海外進出に対して、それを阻むため日本を包囲するように存在した勢力。
 Aはアメリカ(America)、Bはイギリス(Britain)、Cは中国(China)、Dはオランダ(Dutch)を表わす英語の頭文字。

 資源を輸入できなくなった日本はアジアに目を向けます。
しかし、それはオランダのような搾取するだけの植民地化ではなく、東亜の解放、英米の支配からの解放をスローガンに、大東亜共栄圏の実現を主張した日本の本心でもあったのです。

 日本統治時代日本は1942年3月から終戦までの約3年半、インドネシアを統治していました。
日本はこの3年半に次のような政策を行います。
 まず、日本はインドネシアの国旗掲揚と国家斉唱を許可しました。
これは1ヶ月後に取り消しとなりましたが、1944年に独立を許可した時に再任して民族運動の指導者であったスカルノやハッタなどを釈放して民族統一をするための全国遊説を許しました。
民族の団結心をつけるため、100万人の青年団や150万人の警防団、婦人隊、学隊、隣組などを作ってインドネシア住民を組織化します。

 自国を守っていけるように、祖国防衛義勇軍を創設し、インドネシア人に軍事訓練を行い、軍隊を作りました。この軍隊は独立戦争の時に指導的な役割を果たし、インドネシア国軍創設の立役者となります。教育面では6年間の初等教育を実施して、学校には校庭も作り体育を重視した他、インドネシア人の教師養成を目的に師範学校も設立しました。

 崩壊していた食料自給体制を確立させるために稲作農業の指導を行い、農業や漁業、工業、医学、造船などの専門学校や訓練学校を設置し、これにより600人しかいなかった国家エリートを3年半で10万人までに増やしました。
 そしてジャワに最高諮問機関である中央参議院や各地に中参議院を設置し、インドネシア人を積極的に高級官僚にして行政能力を持つように育成していきました。

 また、インドネシア全体で250もの言語が使われていましたが、ジャワを中心に使われていたムラユ語に統一し、インドネシア語に定めます。
この言語が学校教育やラジオ、新聞、映画などで普及したことで、インドネシア人の行動や感情が統一されました。インドネシア人のほとんどが信仰していたイスラム教を重視し、当時分裂していたイスラム教の団体を統合させて、初等教育や軍隊教育においてもイスラム教は重視されました。

 このように日本はオランダのように一方的な圧制を敷くのではなく、インドネシア人の独立の機運を育てていったのです。

②へ続く

【noteホームページより】