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 おはようございます。
3月も中旬になろうとしていますが、まだまだ冷たいですね。コロナも流行っているようですし、くれぐれもご自愛下さいませね。

 さて、今年は正月早々に能登半島地震があり、まだまだ被害に遭われた皆様の哀しみは拭えず、ご苦労の途中ですが、明後日11日は東日本大震災から丸13年目の日、
「災害は忘れた頃にやって来る」と言われますが、ラジオやテレビはもちろん、携帯もインターネットも無かった時代、我々日本の先人たちは、後世にその恐ろしさを伝えようと、様々な工夫をしていました。
その一つが、仙台市若林区にある「浪分神社」、これは、慶長三陸津波(1611年)のあと建立されたものだそうで、海岸から5.5キロの位置にあります。

 ただ、この浪分神社の海側は大きな集落となり、東日本大震災の大津波は仙台平野の沿岸でも高さ10メートルに達し、これら沿岸部の居住地帯は壊滅。
この地区でも、死者・行方不明者数が700人近くに上る大きな被害となった。残念なことにこの神社の伝承が途絶えていた。
と、2011年4月10日の河北新報は伝えています。

 また、大阪市内にも、浪速区幸町に犠牲者の供養と災害の体験を伝える石碑があります。
これは、安政元年(1854)12月24日に起こった安政南海地震津波のあと建立されたもので、大阪は「水の都」と呼ばれ、町の中を何筋もの川が通り、その川を津波がかなり奥まで逆流し、被害を拡大させたのでした。
 今朝は、1891年の濃尾(のうび)地震のあと、人々が後世にその恐ろしさを伝えようと作った「震災数え歌」のお話をご紹介させて頂きます。

『身の終わり(美濃・尾張)』「震災数え歌」

「一(ひと)つとせ、人々驚く大地震 美濃(みの)や尾張(おわり)の哀れさは 即死(そくし)と負傷者(けがにん)数知れず」

 この歌で始まる「震災数え歌」が、岐阜県大垣市の「濃尾地震100年記念誌」に記録されました。
市内在住の方が、親から聞いた数え歌を覚えていたのです。
1891(明治24)年10月28日の早朝、岐阜県美濃、愛知県尾張地方を突然、マグニチュード8.0の巨大地震が襲いました。
この地震での死者は7,200人を超え、14万を超える家屋が全壊。世界でも最大級の内陸直下型地震でした。
10番まで続くこの数え歌では、震災の恐ろしさが生々しく歌い込まれています。
後に、“地震にあえば身の終わり”(美濃・尾張)と掛詞(かけことば)になったほどでした。

「二つとせ、夫婦も親子もあらばこそ あれと言うまいぶきぶきと 一度に我が家が皆倒れ」

「三つとせ 見ても恐ろし土けむり 泣くのも哀れな人々が 助けておくれと呼び立てる」

 続いて、身近な人を助けようとしている様子も歌われています。

「四つとせ よいよに逃げ出す間もあらず 残りし親子を助けんと もどりて死ぬとは つゆ知らず」

「五つとせ いかい柱に押えられ、命の危ぶきその人は やぶりて連れ出す人もある

 地震発生が朝の6時半過ぎ。朝食時に火気を使用している家庭も多く、火災により被害はより悲惨なものになりました。

「六つとせ 向こうから火事じゃと騒ぎ出す こなたで親子やつれあいや 倒れし我が家 ふせこまれ」

「七つとせ 何といたして助けようと 慌てるその間に我が家まで どっと火の手が燃え上がる」

「八つとせ 焼けたに思えどよりつけず 目に見て親子やつれあいや 焼け死ぬその身の悲しさや」

 この数え歌で伝えたいのは震災の恐ろしさだけではありません。
歌の締めくくりには、ボランティアによる救助活動や、日赤などの医療・救護活動への感謝が述べられています。

「九つとせ ここやかしこで炊き出しを 致して難儀(なんぎ)な人々を 神より食事を与えられ」

「十とせ 所どころへ病院が 出ばりて療治(りょうじ)は無料なり 哀れな負傷人(けがにん)助け出す」

 この歌には、悲惨な状況を後世に伝え、二度と同じ悲劇を繰り返さないでほしいという思いが込められています。
 そして、震災の様子とともに災害時の対応すべきすべてが七五調で書かれていて、数字の語呂合わせで覚えやすいように作られています。
ラジオもテレビもない時代、人々は世の中の出来事を覚えやすい数え歌などにして広く世の中に伝えようとしました。
 この「震災数え歌」が歌い継がれることにより、私たちの子孫も、そこから多くの教訓を読み取り、防災対策に活かすことができるのです。

【“その時”に備える】内閣府 防災担当 発行 より