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 おはようございます。
まずはご報告からさせて頂きます。新聞記事等でご存知の方もいらっしゃると思いますが、「日の丸バッチ剥奪裁判」 の控訴審の判決が25日に大阪高等裁判所で言い渡されました。

結果は「控訴を棄却する」。

 つまり、わたしたちの敗訴で、早速、最高裁への上告手続きを行いました。
詳細は、一番下に、一緒に原告として闘って下さっている南木隆治さんのブログのURLを貼り付けてありますのでご覧ください。
 それにしても、全く審議すらしない、日の丸バッチを外すよう命じたその理由すら説明しない裁判官の態度には、憤りすら覚えます。
 徹底的に、最高裁まで闘いますので、引き続き応援よろしくお願い致します。

 さて、いよいよ今年も残すところ4日、最後のやさしさ通心になりました。
最後に年末にふさわしいどんなお話を?と、いろいろ考えたのですが、今朝は、私の親父(昭和2年生まれ)が、78歳の時(2005年)に中日新聞の募集に応募し、入選した作文をご紹介させて頂きたいと思います。よろしかったら、お読みくださいね。

『二度ある私の人生』

田畑保 78歳の春

 昭和16年3月に満15歳で高等二年を卒業したものの、家が貧しく、百姓を秋まで手伝ったが、10月24日より、約6㎞離れた村の小さな炭鉱に働きに出た。
亜炭を坑内より運んでくるのをスコップで跳ね、島の如く大きな馬車に積み込む仕事である。
朝6時過ぎ自転車で走り、焚き木を集め、火を焚いて作業前の用意をするのである。

 雪の降る17年の2月は寒い年であった。
賃金は大人一日3円で、学校を出たての新米は1円80銭、負けず嫌いな私は一生懸命働いた。
社長によく働くから2円40銭やると言われた時は、涙が出るほど嬉しかった。

 父の大好きな煙草ゴールデンバットは7銭から8銭に値上がりしていた。
酒一升が5円40銭、父の大好物の酒一升買うのに、三日働かねばならなかったのに、二日余りで買えるようになった。卒業した年は既に日支事変が始まって4年目で、例の真珠湾攻撃から大東亜戦争に、世界を相手に戦争になった。これから先どうなるのかと毎日不安に思うのであった。

 春先になり亜炭が少なくなり、廃鉱となった。材木屋が人夫を探しに来たので、喜んで働きに行ったが、戦局が不利になり、その頃少年兵募集のポスターがあちこちに貼り出されていた。
 昭和17年の暮れに、同級生が軍需工場へ徴兵された。私も決心した。
同じ国の為なら少年兵に志願しよう。海が好きなので海軍少年飛行予科練習生と決めた。

 昭和18年秋、近隣の152名が志願したが大多数が不合格。
第二次試験で12名が3泊4日に10月7日出発。何名採用されるか皆必死である。終わって皆帰った。
 年が明けて、何名採用されるか、※呉鎮(クレチン)より2名の採用通知が来た。
※呉鎮=呉鎮守府は、広島県呉市に所在した大日本帝国海軍の鎮守府。通称は呉鎮(くれちん)

 自分ともう1名、4里程離れた川口である。何と幸せであった。

 昭和19年7月末日。
17歳の私は近所の皆の人に見送られて出発した。
「生きて帰ったら、一目だけでいい、顔が見たい」と言った母。
日露戦争で長男(母の兄)を23歳で死なした母、戦死したその兄の命日は明治38年1月29日。
一番末娘だった当時4歳の母が、養子をもらって家業を継いでいたので、願いであったと思う。

 いよいよ入隊式、「海軍二等飛行兵を命ず」と言われた時、これから全力を尽くし、国の為にと決意を新たに誓った。しかし戦局はますます不利となり、特別攻撃隊が次々編成され、若い飛行兵は雲流れまた大海原に消えていった。
 この三重航空隊で我も一員として育ったが、六千余命が戦に消えた。
惜しい悲しいことである。敗戦となり、私の18歳5ヶ月の青春は終わった。

 しかし、人間早いか遅いかこの世から消えてしまう。
人生に計画を立て生活を充実させて働き、遊び、誰にも束縛されない生活を夢見た。
8月25日復員、9月1日より働きに出た。製材の仕事をしていたが懸命に働いた。
後日、80円の日当のほか、見た事もない一万五千円もらった。納屋を新築せねばと思い、親方に話しをし、良い材料でしてくれるとの話で昭和22年春に完成した。

 結婚で、若い嫁さんを隣からもらい、男2人女1人出来たが、毎日が汗の労働の日であった。
昭和34年9月の伊勢湾台風により、ナシの生産農家は全滅。
 我が家の果樹園も全部整理し、早く金の入る造船所で働くことにした。
やっと生活も楽になって44歳の5月18日、胃のポリープで伊勢市民病院に入院。

 無事に手術も済み、7月いっぱい休業したが、農業用水の水漏れで大分金も継ぎ込み、45歳も過ぎた頃、岐阜県に一人娘が嫁ぎ、昭和51年4月20日に父が亡くなった。

 三重航空隊にいる時、父が「俺も50歳になった。畑仕事で腰が痛い」と手紙が来た。
その時の反省録が今も航空隊のあった香良洲(津市)の若桜福祉会館にあり、「便り見て 老い行く父母とはじめて知り 孝のしたらざるを嘆く年の初めに」と書いたページがある。

 今は衣食住の生活も良くなり、長男、次男、娘も結婚したが、長男は女ばかり3人、次男は大阪で一男一女に恵まれ、それぞれ人生を送っている。
65歳を超えた時「生きていれば儲け」の締めくくりを計画した。
長男は朝早くから夜遅くまで働き通している。私も元気な内は働こう。
誰にも苦労はかけたくない。

□父は、平成26年(2024)に88歳で亡くなりました。

 結局、海軍航空隊では、三重航空隊から愛媛県松山市の基地へ転属、そして次は、いよいよ海軍の特攻隊基地があった鹿児島県鹿屋への転属の前に終戦を迎えています。

 もう、半年でも終戦が延びていれば、特攻隊として死んでおり、私もこの世にいなかったかも知れません。そんな父が生前よく言っていたのは、「俺は長男やから後回しにされたけど、次男三男やったら、死んでたやろなあ。均、お前もこの世に生まれてへんなあ」という言葉です。

一度切りの人生、何のために生まれて来たのか?
何をすれば、満足行く人生が送れるのか?

 私は、そんなことばかり考えて生きて来たように思います。
そして、そんな私ももう来年は67歳になろうとしています。
日の丸裁判も、このやさしさ通心も、とことんやろうと思っておりますので、どうぞ、来年もよろしくお願い致します。どうぞ、良い年をお迎えくださいね。今年一年、本当に有り難うございました。